100辞書・辞典一括検索

JLogos

58

速見郡


文禄2年大友吉統が除国され,宮部継潤が北4郡を検地し,当郡は蔵入地として彼に預けられた。翌3年毛利兵橘,同4年前田玄以,同5年杉原長房と代官が交替,慶長2年府内藩に入った福原直高が大分・速見2郡12万石(6万石は預りともいう),府内から杵築に転じた早川長敏も速見の一部を領した。慶長4年福原は杵築に移封,速見郡5万600石,大分郡9,300余石,計6万石を領した。慶長5年大友吉統は西軍に味方して石垣原で東軍黒田孝高と戦って大敗,降参して江戸に送られ,家康から秋田に流された。この年丹後田辺の細川忠興に6万石を加増,同年12月豊前1国と国東郡および速見郡旧領合わせて中津39万9,000石に封ぜられた(同7年小倉城に移居)。翌年速見郡1万7,000石を家臣松井康之に預けた。元和8年の「小倉藩人畜改帳」では細川領は,速見郡由布院・横灘4村(別府・石垣・浜脇・小野小平村,2,313石余)・木付計1万4,425石。立石村(現別府市南立石)1,000石は,細川忠興の妹イヤの子(萩原殿)に与えられ,宝永4年まで続き,のちは幕府領となった。慶長6年木下俊延が日出藩3万石,久留島康親が森藩1万4,000石を受封,幕末に至った。森藩領は速見郡鶴見村662石余,枝郷北中村446石余計1,108石余となっている。元和2年譜代大名石川忠総が日田永山城6万石に封ぜられ,日田・玖珠のほかに速見郡亀川地方を領し,寛永10年まで続く(諸家譜)。元和9年松平忠直(一伯)が大分郡萩原村に流され,大分郡のほか当郡内北石垣村・鉄輪【かんなわ】村計1,412石余を領し,慶安3年の逝去まで続いた。寛永4年旗本筑紫広門が当郡内3,000石(別府村・小野小平村・浜脇村・石垣村)を与えられたが,のち扶持米に改められた(諸家譜)。寛永9年細川忠利が肥後54万石に転じ,小笠原長次が中津8万石に入り,その叔父忠知が木付4万石を与えられた。正保2年松平英親が3万7,000石を得てこれに代わり,幕末に至った。寛永11年譜代大名松平忠昭が亀川2万2,000石に封ぜられ,1年半で大分郡中津留村,さらに高松村に移ったが,領知は継続された。忠昭は万治3年府内藩主となり,郡内の領地は幕府領となる。天和2年松平直矩が日田永山城7万石を得,親藩として貞享3年まで郡内を領した。貞享3年からは再び幕府領となり,一部は正徳2年から日向延岡藩牧野領となり,延享4年から同内藤政樹領となった。以上日出・杵築・森・延岡領以外は幕府領で,幕末まで続いた。当郡の大名の交替は目まぐるしく,支配の村々・石高など詳細は不明なところが多い。「正保郷帳」で断面を示すと,御蔵納5,088石余・久留島丹波守領2,032石余・筑紫右門領3,000石・松平忠昭領2,107石余・木下領3万石(うち5,000石木下縫殿助分治)・松平市正領4,188石余(別に新開332石余)・萩原領1,000石・松平一伯領1,412石余である。「天保郷帳」は当郡は120か村5万4,838石余。「旧高旧領」は,日出県18村2万8,677石余・木下領8村(日出分治,日田県)5,514石余・杵築県42村8,268石余,森県3村2,338石余・熊本預処36村1万1,344石余(日田県),以上総計123か村5万9,139石余である。当郡では寛文3年日出領大神【おおが】・藤原・山香村・元禄10年同領常道村・八坂村・広瀬村などの百姓が,隣藩杵築領に逃散するなど,比較的早く逃散が行われたことが注目される。日出藩では19世紀はじめに帆足万里が出て「窮理通」を著わし,家老として藩政改革を断行,また私塾を開いて英才を教育するなど,大きな足跡を残した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7458361