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大田(中世)


 鎌倉期から見える地名。日向国宮崎郡のうち。建久8年の「日向国図田帳写」によれば,八条女院領国富荘の一円荘のうちに「大田百丁」と見え,宮崎郡内にあり,地頭は平五なる人物である。宮崎市古城の伊満福寺所蔵大般若経には,「日州宮崎郡太田村池上山伊福満寺頼意求法」の奥書があり,同寺には永正18年銘の六地蔵幢もある。このことから,中世には伊福満寺付近までが「大田」のうちであったと推測され,建久の図田帳にいう「大田」は,現在の宮崎市太田1~4丁目・古城町あたりを指すものとみられる。応永28年の「五郡田代写」にも大田100町と見え,戦国期の天正19年「日向国五郡分帳」には大田80町とある。この間,応永7年8月3日,島津元久は樺山音久に対して,「島津庄日向方大田郷内十町」を給分として宛行っている(樺山文書/日向古文書集成・旧記雑録前2)。島津元久は,応永17年2月15日,樺山氏に対し,「島津庄日向方隈野郷内十町」を安堵している(同前)が,隈野郷は,建久8年の「日向国図田帳写」によれば,八条女院領国富荘の一円荘であることから,「島津庄日向方」の表現は,島津氏による島津荘掌握を意識においた擬制的表現とみられ,応永18年10月9日の樺山音久譲状(樺山文書/日向古文書集成・旧記雑録前2)によれば,樺山音久が宮崎郡内に知行地を有したことからみても,大田郷は,旧八条女院領国富荘大田をさしているものとみられる。大田郷は,応永19年3月20日,島津久豊によって樺山孝宗に安堵されている(同前)。当地には太田城があった。建武3年11月21日の畠山義顕証判禰寝清種着到状(池端文書/日向古文書集成・旧記雑録前1・南北朝遺788)・禰寝清武着到状(禰寝文書/南北朝遺787)・禰寝重種着到状(肝付文書/日向古文書集成・南北朝遺789)によれば,清種らは北朝方の軍勢催促に応じて,国富荘の「太田城」に籠る南朝方の伊東祐広・肝付兼重方の勢力を打ち破るために出軍している。この時の軍功は,翌年4月23日の建部清種軍忠状(池端文書/南北朝遺918・日向古文書集成)・建部清道軍忠状(市来文書/南北朝遺917・日向古文書集成)等に,畠山義顕が証判を加える形で認められている。現在の宮崎市古城にある城跡がこれにあたるとみられる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7459830