妻村(近世)

江戸期~明治22年の村名。日向国児湯【こゆ】郡のうち。天正16年豊臣秀吉が島津豊久に宛てた知行目録には妻万30町とある。その後,元禄11年「日向国覚書」には妻万村と見え「セイマン」と振り仮名があり,また寛政7年以後の成立と思われる「御検地新古目録」(日向国史下)や「天保郷帳」にも妻万村と記されている。一方,高山彦九郎「筑紫日記」の寛政4年閏2月11日の記事には「椿キ原・島内・月戸野を経て巽壱里妻に至る」とあり,「旧高旧領」でも妻村と見えることから,江戸中期以降に妻万村から妻村に改められたと考えられる。村高は,元和3年(古高)には313石余(御検地新古目録/日向国史下),元禄11年「日向国覚書」には312石余,寛政7年(新高)には313石余(同前),「天保郷帳」にも313石余,「旧高旧領」では477石余。地内には町場があり,妻町と呼ばれ,佐土原3か町の1つとして重視され,行政的には当村とは別に町方としての支配をうけた。村内は上妻・中妻・下妻に大別され,上妻に都万神社が鎮座し,中妻・下妻の中心が妻町として町人の居住地であった。江戸期の都万神社は,佐土原七社の1つとして佐土原藩の崇敬をうけ,藩主の代替りにはもちろん,参勤や就国などの行事がある時には必ず藩主の社参や代参がなされた。社領は佐土原藩の社領としては最高の315石余を与えられていた。万延元年の「佐土原藩分限帳」によると,315石余の内訳は修理料75石余,別当寺の一乗院20石・神宮寺21石余,残りを社家17人に与えている(西都の歴史)。高山彦九郎の「筑紫日記」によれば,彼は穂北椿原から妻町に入り,都万神社に参詣しており,その時の模様を「椿キ原・島内・月戸野(調殿)を経て巽(東南)壱里妻に至る,石鳥井・池有り,楠の大木根本三四間なる数株あり,社東向,玉垣の内拝殿・渡殿・宮殿・末社多し,釣鐘も有り,社領三百十五石,社家三十六人,神主法光(法元)駿河といふ,妻大明神木花開耶姫ノ命を祀る,当国二ノ宮と称す,佐渡(土)原の領分なり,大社なり,社より南二丁斗り桜の並木先月二十日頃盛りにて今は葉桜のみ,妻町乾(北西)・巽二丁斗り」と記している。寺院は都万神社の西南1町に真言宗黒貫寺末神宮寺,神宮寺の東南2町余に禅宗大安寺末隣祥院があったが,明治4年ともに廃絶したという(日向地誌)。同年佐土原県,美々津県を経て,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。「日向地誌」の著者平部嶠南が当村に調査に訪れたのは明治11年5月23日で,同書によれば,村の規模は東西約8町・南北約10町,四面が皆右松村に囲まれ,わずかに東北は調殿【つきどの】村,西は三宅村と接し,宮崎県庁からの里程は西北へ約6里32町,地勢は「闔村平坦,東西分テ両部トナル,右松村其中間ニアリ,薪芻乏シト雖モ運輸便利」と見え,地味は「其田六分砂土,二分真土,二分黒ソミ土,其質上ノ下,畑ハ六分砂土,二分真土,二分黒土,其質上ノ中,煙草ニ宜シ,水利便ナリ」とある。また,税地は田34町余・畑30町余・宅地17町余・山林9反余・藪2反余などの計84町余,無税地は計1町余,官有地は池沼など計6反余,飛地として三宅村に田9反余・畑1反余・宅地3反余,右松村に田2反余・畑6反余,調殿村に田3反余があり,貢租は地租金653円余・雑税金1,446円余の計2,099円余,戸数149(うち神社1)・人数554(男265・女289),馬62,村内の字地別戸数は妻町75・妻園2。学校は地内妻町に人民共立小学校があり,生徒数は男60・女15,また郵便取扱所も妻町にあった。民業は半農半商で,農間に工業8戸が従事し,医者2戸・牛馬売買1戸がいた。物産は糶200石・煙草2,000斤・木履1,500双・酒100石・焼酎16石・豆腐20万丁・蒟蒻16万丁・蕎麦麺8万椀。道路は米良【めら】往還が東南の右松村境から西北の調殿村境まで通り,用水に桜川溝があるという。なお,この「日向地誌」では妻町を妻村の一字地としているが,江戸期と同様に明治期以降も独立していた。明治21年には妻町を除いた当村の戸数82・人口294,反別は田35町余・畑33町余・宅地15町余・山林1町余・原野4反余・雑種地10町余の合計96町余,諸税および町村費の納入額は国税690円余・地方税279円余・町村費52円余・協議費185円余(郡行政/県古公文書)。明治22年妻町を併せて下穂北村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7460485 |





