宮崎荘(中世)

平安末期~戦国期に見える荘園名。日向国宮崎郡のうち。宮崎市上北方・下北方・南方・池内を中心とする地域。宇佐宮領。「宇佐大鏡」によれば,永承年間の頃,宮崎郡内の郡家院の開発により立券されたと見え,宮崎荘の成立は10世紀初頭のこととみられる。起請田の田数106町,12世紀初頭の長承年中の検田目録には定田130町10代と見える(大分県史料24)。建久8年の「日向国図田帳写」によれば,宮崎荘は宇佐宮領で,田数300町,地頭は前掃部頭中原親能である。応永28年の「五郡田代写」にも300町と見える。戦国期の天文2年8月3日宇佐宮領注文(到津文書/大分県史料24)は,宇佐宮領の旧領の田数をかきあげたものであるが,宮崎荘の田数は300町と見え,建久図田帳の田数に依拠したものとみられる。さて,中原親能について,建久6年5月の将軍家政所下文案(益永文書/鎌遺792)は,鎮西守護人中原親能が宇佐宮領宮崎荘の年貢を押領していたと記している。この文書は,文書様式の上で種々の問題点があり,偽文書の疑いがないわけではないが,地頭中原親能による年貢押領は時期的にもありうることとみられる。その後,仁治2年3月30日関東下知状(田中教忠氏所蔵文書/鎌遺5793)によれば,武蔵国足立郡年貢の立て替えに丹波国日置荘と日向国宮崎荘が「赤子御前」の御領となっていることが知られる。足立郡は,平家没官領で「公領」であったことが,弘安5年の資料(新編追加)から知られ,「公領」は関東御領を示すものであることからみても,宮崎荘は関東御領の可能性が高い。このことは,宮崎市南方にある奈古神社について,奈古社は宮崎荘内であるが,弘長元年12月と弘安元年12月の奈古神社大宮司職補任状に「預所兼地頭御代官大江」と見え,預所と地頭を兼務する事例は関東御領の型の1つとして認められている点からも関東御領であることの可能性は高い。また,宮崎荘の地域区分のあり方をみると,文永6年7月28日奈古社大宮司職補任状には「宮崎御庄両地頭代」と見え,地頭代が2名いることがわかり,また,弘長元年2月宮崎荘内南方奈古八幡宮社領目録と文保元年11月17日奈古社大宮司職補任状に「宮崎庄南方地頭代」と記されていることからみて,現況の地名と考えあわせると,鎌倉中期頃には,宮崎荘は,既に南方と北方に分かれていたとみてよいものと考えられる。この宮崎荘内の奈古社には,宝治元年11月,地頭と政所により奈古社大宮司に海清久が任ぜられているが,鎌倉後期とみられる裁許状には,海氏一族間で大宮司職をめぐる相論が発生していることが知られ(以上,奈古神社文書/鹿児島中世史研究会会報8),南北朝期になると,暦応2年5月26日日向国国大将畠山義顕軍勢催促状(志賀文書/南北朝遺1346)から,義顕は,大友宗惟に対して,大隅における肝付兼重等の南朝方勢力の伸長の中で宮崎荘の軍勢を率いて参ずるよう命じている。また,このころ,宮崎平野にあって勢力を伸ばす土持時栄に対して,貞和4年8月9日某袖判下文(土持文書/日向古文書集成)から,宮崎荘北方内和田村半分が宛行われていることがわかる。また,文和3年10月16日沙弥浄心申状案(大友文書/同前)によると,浄心は宮崎荘内調殿村・和田村・宮崎本村半分・柏田半村などを大友氏時に譲っていることが知られるが,永徳3年7月18日大友親世所領所職注文案(大友文書編年大友史料8)には日向国守護職とともに宮崎荘が見えるのであり,宮崎荘は大友氏の日向国における重要な所領であったことがわかる。その後,室町期になると,奈古社に対して文安3年11月15日,代官祐守は宮崎荘北方内萩原1反を,また,文安4年閏3月23日,代官但馬守康綱はその施行状によって宮崎荘内の水田2反を寄進している。両者は伊東氏の被官とみられることから,伊東氏の勢力が宮崎の地に拡大してきていることがわかる。さらに,文明9年9月14日祐武・祐立連署状や延徳2年林鐘29日平群日俊安堵状をみると,伊東氏は奈古社祭礼に深く関与しており,伊東氏の領域支配の進展をうかがうことができる(以上,奈古神社文書/鹿児島中世史研究会会報8)。この間,建武3年2月7日土持宣栄軍忠状(真本御領諸県郡大田原村新助蔵文書/旧記雑録前1)によれば,この年正月14日,日向南朝方の肝付兼重の与党一坪慈丹は「宮崎池内城」にたてこもり,池内城を占拠したと伝える。池内城は宮崎の中心をなす城であったとみられる。また,貞治7年1月18日大光寺年貢諸日記(大光寺文書/日向古文書集成)には,1貫文の絹代が「宮崎須田殿」から納められていることが見え,大光寺は宮崎の須田殿と呼ばれる領主と何らかの仏縁のあったことをうかがわせる。この宮崎の地は,南北朝末期の頃,九州探題今川了俊と関連して,今川直忠は宮崎の土持栄勝に宮崎に来着したことを記しており(垂水氏旧蔵伊東文書/日向古文書集成),土持氏は反島津方として九州探題今川了俊に親近な関係にあったことが知られる。のちの「山田聖栄自記」は,このころ「山東・河北・宮崎・田島・木脇・河南」は土持氏の支配領域と記しており(鹿児島県史料集7),土持氏は宮崎を中心に地域支配を拡大していた。その後,室町期の南九州の領主配置を知りうる文明6年8月の行脚僧雑録(旧記雑録前2)には,伊東氏支配の山東城の1つに宮崎が見え,伊東氏の支配下に入っていることが明らかとなる。このことに関連して,文安3年頃とみられる禰寝直清宛て島津忠国書状(禰寝文書/九州史料叢書)には「山東事,伊東宮崎ニ勢遣候けるか,打負候て,在所へ引帰候」と見え,宮崎は,島津氏・伊東氏の係争地であったことが知られる。室町期の11月15日土持家奉行人奉書(延陵世鑑/日向郷土史料集2)は,土持氏は伊東氏と合力してきたが,室町期の伊東祐尭の宮崎責めの後,土持氏と伊東氏は義絶したと伝えている。このことは,上述の伊東氏の持城に宮崎が見えることと深くかかわっていよう。こうしたなかで,享禄4年12月27日伊東氏老中連署坪付(奈古神社文書/鹿児島中世史研究会会報8)には,宮崎の南方の牟田開の地を奈古神社に寄進しているように,在地支配を進めていったことがうかがえる。元亀3年5月,伊東氏が島津氏に敗れる端緒となった木崎原合戦の頸注文(義弘公御譜中/旧記雑録後1)には,伊東氏方の宮崎衆として尾藤宮内が見える。天正6年,伊東氏が島津氏に敗れるなかで,この年正月23日,島津氏は宮崎300町を島津豊後守に宛行うと約しているが(日州御発足日々記/旧記雑録後1),これは,建久8年6月の「日向国図田帳写」の宮崎荘の田数に一致することから,日向への入部に際し,島津氏は図田帳によって当初の知行割を行おうとしたものとみられる。また,この年2月5日,島津義久は宮崎に足をとめ,宮崎城を島津歳久に在番させ,同月7日には宮崎で狩を行っている(同前)。その後,天正8年8月,島津氏は宮崎地頭に上井覚兼を任じ,覚兼はこの年の肥後水俣攻めに加わっている(肥後水俣陣立日記/旧記雑録後1)。宮崎地頭上井覚兼は,宮崎池内城にあり,宮崎の領域支配者としてあった一方で,島津氏の老中としての立場から日向山東地域の統轄者の役割を担っていた。覚兼の日記「上井覚兼日記」は,宮崎地頭上井覚兼の生活記録としての面をもつ真実性の高い内容の日記である。宮崎の島津氏支配下のあり方について触れると,覚兼のもとに,「城内之衆中」(天正11年正月26日条)と呼ばれる宮崎衆中の核となる人々(関右京・柏原有閑)がおり,「宮崎衆中」(天正11年2月6日条)・海江田衆(天正14年2月5日条)・折生迫衆(天正11年7月15日条)が広義の宮崎衆として組織されており,覚兼の側近である鎌田源左衛門尉・上井右衛門尉・上井恭安斎は宮崎衆中に属していた。また,階層的にみると,山臥衆と呼ばれる修験者の集団があり(天正14年正月14日条),これらの修験者は軍事・通信などに重要な役割を果たしたとみられる。また,「同心衆・地下衆」(天正11年7月11日条)と呼ばれるように,覚兼同心衆と在地の地下衆は身分的に区別されていた。この他,覚兼の直臣である鳴海舎人助らは「悴者」(天正14年2月5日条)として他の衆とは区別されていた。こうした宮崎衆中の構成の上にたって,覚兼は「恭安斎御二人,鎌源・神九郎殿二人ニ寄合申候」(天正14年3月10日条)と,覚兼と側近の寄合=合議制をしいて宮崎の経営を行ったのである。宮崎地頭の宮崎の支配・経営で注意すべき点の1つは,流通の掌握である。覚兼は「当所和知河原へ入候舟ヲ,曽井之扱赤江より,彼前を通たる大小舟共二百疋宛之公役たるへき由にて被留候」(天正14年4月18日条)と,宮崎へ入る船が曽井地頭によって赤江で関銭を賦課されたことで相論が発生しているように,和知川原が大淀川を遡上する船の入港地として栄えており,河川を利用した流通の掌握が宮崎地頭上井覚兼の重要な役割を占めていたことが知られる。海上交通については,折生迫着の京船の検分(天正14年4月14日条),内海の破船の検分(天正13年3月13日条)が知られる。次に,宮崎地頭上井覚兼の領内の普請についてみると,折生迫浜之口石築地普請(天正13年閏8月朔日条)・橋普請(天正11年10月5日条)・弓場普請(天正11年10月5日条)が知られ,港湾の整備・交通網の整備・武芸のための練成の場の普請は地頭の重要な仕事となっていたことがわかる。最後に,地域祭神の勧請についてみると,宮崎の中心となる奈古社のおはらい田の勤仕が地頭役になっていることが見え(天正11年6月29日条),神社の祭祠が地頭主導のものとなっていることがみられる。一方,宮崎地頭上井覚兼の日向山東地域の統轄者としての立場は,天正12年11月18日の近衛信尹・足利義昭支援の守護段銭徴収の命令,天正13年5月28日の肥後八代への出陣の番立と京都段銭の賦課命令などの伝達先が,高城【たかじよう】・財部【たからべ】・富田・都於郡【とのこおり】・穂北・清武・穆佐【むかさ】・蔵岡・飯田・細江・永峰・三城・守永・田野・佐土原【さどわら】・長野・曽井・本庄・木脇・綾・富吉に及んでいることからわかり,宮崎地頭上井覚兼は,島津氏の日向国経営にあたって,山東地域の段銭等の集約と軍役の賦課を令達する重要な立場にあったことがわかる。軍事面では,「当国之諸地頭衆・拙者同心申佐土原参候」(天正13年8月5日条)と,肥後立の際は佐土原の島津家久の補佐的立場にあって日向の統轄を行っていることがわかり,この立場を背景に,日向における島津家久の所領獲得要求を鹿児島に伝え(天正11年3月20日条),曽井衆中の移りを鹿児島に伝える(天正11年4月19日条)など,日向の島津氏一族・家臣の要求を鹿児島での裁許に委ねる立場を担っていたことが知られる。このことについて,天正12・13年頃とみられる8月19日の都城の北郷一雲書状(旧記雑録後1)は,鹿児島の老中本田親貞に宛てて,肥後への出陣を承知した旨伝えているが,その中に宮崎の上井覚兼にもこの旨を伝えたと記している。これは,日向の軍役賦に上井覚兼が重要な役割を担っていたことを反映したものとみられる。島津氏は,天正15年,豊臣政権に敗北し,日向の知行割がなされ,県・三城・宮崎の3か所は高橋氏に与えることになった(勝部兵右衛門聞書/旧記雑録後2)。この時,天正15年の5月7日島津義珍(義弘)書状(旧記雑録後2)によれば,島津氏は宮崎と高原は霧島社に秀吉から寄進されることになるとの思惑をもっていたことが知られ,秀吉の動向とくいちがっていた。宮崎が収公されることになって,天正15年6月12日,島津義弘は宮崎地頭の任を離れることになった上井覚兼の労をねぎらっている(諏訪氏文書/旧記雑録後2)。一方,豊臣政権側は,天正15年6月13日安国寺恵瓊書状(同前)に,宮崎の地の処理は上井覚兼側から1人差し出し,福智長通と相談の上で行うよう命じていることが知られる。慶長5年,関ケ原の戦の最中,家康は小倉の黒田如水に,同年9月28日,伊東氏の将稲津掃部助に高橋元種領の宮崎城の攻略を命じさせ,島津氏をおさえにかかっている。この結果,宮崎城は伊東氏の占領状態となった(以上,伊東文書/日向古文書集成)。正月20日島津竜伯書状(垂水邸文書/旧記雑録後1)は,島津以久に宛てて,宮崎での合戦の結果を記しているが,慶長6年4月4日黒田孝高書状(伊東文書/日向古文書集成)に見える宮崎を伊東氏に与えるとの約束から考えて,列記の文書は,慶長6年正月頃の佐土原と宮崎の島津・伊東間の小競合を反映した書状と考えられる。その後,慶長6年10月14日,伊東氏は宮崎を占領した稲津掃部助に切腹を命じ,宮崎は高橋氏の所領に返ることとなった(同前)。宮崎は,文禄5年閏7月18日,近衛信尹の薩摩からの帰洛の折,志布志―千能ノ湊―外浦―内海―宮崎―佐土原と経由しており,日向の海上交通の要の位置にあったことがわかる(三藐院記)。謡曲景清には,景清の宮崎流罪が記され,その伝説はこの地に流布している。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7460934 |