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帖佐郷(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える郷名。大隅国のうち。建久8年の大隅国図田帳に,「帖佐郡二百七十一丁大,正宮領,本家八幡,地頭掃部頭,為半不輸,正税官物者,弁済於国衙也」とあり,正宮領に御供田・寺田・小神田・大般若経講浮免,国方所当弁田に万得・恒見・宮吉・正政所・権政所・公田村々10数か所とあるが,村々の名は明らかでない。地頭掃部頭とは大友掃部頭親能入道寂忍。また同9年3月12日付の大隅国注進御家人交名に,帖佐郡司高助とあるが(宮内社家文書/旧記雑録),帖佐郡とは帖佐郷のことである。郷名としては「吾妻鏡」元久元年10月17日条に初見。それによると,帖佐郷肥後房良西が,大隅正八幡宮の訴状により,帖佐郷の地頭職を止められている。また宝治元年10月25日付の関東下知状によると,承久のころ「正八幡宮領帖佐郷事」に依って御家人良西が,神王面を奪いとるという事件が起こったという(水引権執印文書/同前)。建治2年8月日付の大隅国在庁石築地役配符には「帖佐西郷二百四十丁九段三百歩,除貢進田五丁,定二百卅七丁五段大」とあり,小地名として,公田に大山・深見・中河良・山崎・寺師・中津乃・永世・住吉・船津・餅田・神河・松武・恒見,万得に平山・千本・豊富・柒畠,寺田に法楽寺・百堂・新三昧・最勝寺領甑などが見える。これらの地名によって,帖佐西郷は他の史料に見える帖佐郷であることがわかる。帖佐郷が大隅正八幡宮領であったことは,弘安10年10月日付の守公神神役注文や同じころの守公神侍畳図などに明らかである(調所氏譜祐恒伝/同前)。やがて弘安年間に石清水八幡宮の別当寺善法寺の検校平山了清が帖佐地頭として入部し,のちの帖佐鍋倉平山城によった平山氏と,その庶流の甑・餅田・中津野・平瀬・平松・高城・松元・市成・小城・小川・木幡氏などによって帖佐地方は領有されるようになったという(姶良町郷土誌)。永享3年3月日付の大隅国司庁宣に,帖佐東郷と見えるが(調所氏文書恒房伝/旧記雑録),帖佐東郷はこの史料だけであり,具体的な範囲も明らかでない。帖佐郷のことと考えてよいであろう。この頃から他氏の進出がみられる。永享6年6月2日に本田重経が帖佐郷寺師村の一部を(国分宮内沢氏文書/同前),同8年閏5月20日に島津忠国が餅田名の一部を(忠国公御譜/同前),それぞれ大隅正八幡宮に寄進している。同年に平山氏を討った忠国は,餅田村の一部を安堵しているが,享徳3年には島津季久によって平山氏は滅ぼされた。文明年間になると島津忠昌が帖佐に入り,明応4年辺川忠直が帖佐地頭に任ぜられたが,のち島津氏に反し,島津昌久,伊地知重辰へと変わる(姶良町郷土誌)。この変動に乗じて,祁答院重武に横領されたが,やがて島津義久の平定後,永禄8年8月4日付島津義久書下で島津以久に与えられている(旧記雑録)。天正8年の「肥後合戦御陣立日記」では,「老中,帖佐,平田美濃守光宗」とあり,平田氏が地頭である(同前)。文禄4年6月29日の豊臣秀吉朱印知行方目録に,羽柴薩摩侍従蔵入分として,「一,七千八百六拾四石七斗五升四合,同(姶羅)郡帖佐村」とある(島津家文書2/大日古)。帖佐村とは帖佐郷のことで,石高よりみて,近世初頭の帖佐郷とほぼ同地域であろう。同年島津義弘が宇都と平松に居住したが,慶長11年に加治木郷に移住してからは,島津家の直轄領となり,地頭が置かれるようになった。なお,明応4年と推定される6月29日付の島津忠昌書状に「今朝辰刻,帖佐城へ従加治木切乗候之由聞候」とある(肝付伴兵衛兼屋文書/旧記雑録)。これは加治木大和守久平が帖佐城を攻めた時のことである。「姶良町郷土誌」によると,帖佐城は平安城ともいい,弘安年間に入部した平山了清が,姶良町鍋倉(当時は平山)に築城したもので,同台地に勧請した新正八幡の別当寺平安山八流寺増長院により,平安城ともいい,旧地名によって平山城ともいう。城は本丸・二の丸のほか,11の小城をもつものであった。この城では数度の合戦が見られるが,平山氏の没落後も渋谷良重が帖佐城により島津貴久と対戦,弘治元年帖佐城は落城し,島津貴久が帖佐を領有するところとなった。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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