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成枝名(中世)


鎌倉期~室町期に見える名田名薩摩国薩摩郡のうち建久4年の薩摩国諸郡注文に,薩摩郡の名を挙げて「是枝名,光富名,成枝名,永利名,寄田名,時吉名」とあり(入来文書),次いで建久8年の薩摩国図田帳には,薩摩郡の中に「成枝八十六町 郡司忠友」とある成枝の地名の由来は不明である後に成岡・成永・成富等これに類似した名田名が発生するが,これらは成枝名の二次名と考えられるまた,薩摩平氏がいつ頃薩摩郡に入部したかについては次のようにいわれている薩摩平氏は南薩平氏(一に伊作平氏)で,その始祖は薩摩六郎忠直といわれ,忠直は頴娃三郎忠永の六男である忠長は伊作平次郎良道の三男であり,弟に阿多忠景がある阿多忠景は武勇の人物で,平安末期から鎌倉初期の混乱期に薩隅の地を押領しているが,この頃忠永も薩摩郡に入り,一角の地を所有したものとみられている(川内市史)忠直が隈之城の地に居住し,所領を有したことは,次の文書で証明できる建仁3年5月27日付の薩摩郡司平忠直譲状に「譲与平礼石寺 座主職之事 七男亀童丸 在四至限東田畔,限南河,限西西山西際,限北温谷,仏事之料田被寄進畢,其後忠直差四至奉免,而今子息等寺領可令配分之日,七男亀童丸分,相副調度文書等,可譲渡也」とあることから明らかで,これは忠直が晩年になって,おそらく末子である亀童丸に分譲したものであろう(入来文書)この文面からは忠直の父忠永が平礼石寺を修造したことがうかがえ,忠直もこの地に居住したものと思われる平礼石寺址は川内市中福良町の中央,小字成岡の丘阜にある「延時文書」建武4年11月21日付の条に「なりえだみようのうちなりをか」とあり,また寛元2年6月21日の僧忠兼申状に「平礼石寺者,忠兼法印仁罷成時,自親父忠直之手,譲得之後,令堂舎修造,致有限朝夕勤,令旁御祈祷申外,全無余煩,経年序之処,故忠友之時,件寺依為郡司所近隣,要用之時者,寺内之下人,時々雖雇仕,忠友依為忠兼之兄族,不制止申之処」とあり(旧記雑録),薩摩郡司所から近くにあったことを示しているこれからみて成岡周辺が薩摩氏一族の本拠地であったとみてよいであろう成枝名田の分布については「延時文書」寛喜3年2月19日付の平忠友から子息忠富への譲状によって大略を知り得る但し忠富とは薩摩氏系図に現れないので,これが嫡男忠道(忠持・忠茂とも)と同一人であれば,成枝名の中枢を示すと思われるが,あるいは三男忠恒ともみられ,この場合成枝名の一部を示すことになろう譲状は成枝名内水田10町と成枝名内村々畠地に分けてあり,水田は大賀里の青木・同南辺・小落見久・田美上新開・次郎作・正明・須桃木・柏木・中久田原・宗原・宮崎・曲田,平礼石里の木下・奴馬□,瓦田里の永田・竹下,羽嶋浦の小苗代に散在,村々畠地の所在は「永野村一所四至〈東限坂口并牟多際 西限山際 南限小山□(拾)并護道坂口 北限田畔〉」「久美野⊏⊐際限」「牟木浦」「栗栖山一所四至〈東限牟田際 南限尾上 北限田畔 西限小山并牟多〉」「平礼石居薗一所〈南限牟多〉」「国領畠一所」「大平薗一所〈東限田畔 北限田畔〉」とある(財部延時氏文書/旧記雑録)現在,川内市隈之城町・中福良町・宮崎町・尾白江町あたりに青木・柏木・宮崎・尾賀・尾賀原・久見原・麦・竹下などの小字名があり,成枝名の田畠の分布が推測できる「地誌備考」は成枝名を「今の永利郷山田村の内」としているあるいは山田に成枝名の田畠がいくらかあったかもしれないが,上記小字名の検討からすれば「地誌備考」の比定地は誤りである薩摩氏系図によれば,その嫡流は忠直―忠友―忠茂―忠国―忠能(成枝領主)―忠任―忠武と続き,のちに成枝姓を名乗っていることから,成枝名の中枢を伝領したと考えられる成枝左衛門尉は暦応2年碇山城合戦のとき,権執印俊成らとともに守護方につき籠城したというが,後日恩賞のことで不平を抱き,隈之城の地を去り,永利山田に帰ったという(川内市史)この左衛門が上記系図の誰に相当するか不明であるが,文明6年の行脚僧雑録には隈之城衆として「猿渡,本田,天辰,成枝,町田」とある(旧記雑録)これからみると,この時点でもなお成枝氏は隈之城に居住し,島津家臣団に属していたようであるなお,成枝名の下限を示す文献は応永8年3月7日付の禅祐から国分豊後守への訴状で「さつまこほり なりゑだミやうのうち はしまのうら 三丁ふんの事」とあるものである(羽島氏文書/旧記雑録)




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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