100辞書・辞典一括検索

JLogos

41

松山郷(近世)


 江戸期~明治22年の郷名。日向国諸県【もろがた】郡のうち。文禄元年(または2年ともいう)救仁院志布志郷から新橋・泰野・尾野見の3か村を分離して,松山郷を創設。文禄検地後は島津義久蔵入分10万石の中に含まれる。慶長4年伏見で伊集院幸侃(忠棟)が島津忠恒(家久)に手討ちにされたことが原因で,嫡子伊集院忠真が都城において島津氏に背き,庄内の乱を起こす。忠真の将日高静鎮・中村吉右衛門がいつわって松山城を攻め,志布志の樺山久高は松山を援けて兵を出したが,そのすきに乗じて日高・中村軍は志布志槻野城を急襲してこれを攻略し,転じて再び松山城を攻めた。城主柏原有国がよく戦い,鉄砲の名手木脇喜兵衛らをして銃撃させたため反乱軍は退去した。庄内の乱後翌5年からは鹿児島藩直轄領,外城の1つとして体制も漸次整い,新橋・泰野には藩の郷士が,尾野見・黒石方面には新納家の家臣,大野原方面には伊勢家の家臣が定住し,郷士の多い泰野には野町が発達した。万治・享保の内検で,藩内の人配・人移しが行われ,寛郷型のこの地方(薩摩地方に対し,東目またはショネ〈庄内地方〉と呼ばれた)に移住したものが多く,郷士も加世田・谷山・市来・蒲生などから移住したものが10余家もある(松山町史)。文化2年の「旧跡等御糺方付箇条書」によると,総高2,396石余,百姓野町人総人体1,319,但し竈数258。「薩藩政要録」では,当郷は大番頭預で,郷士惣人数204,郷士人体97,所惣高2,272石余,郷士高652石余・寺高2石,用夫287・野町用夫8。「地理纂考」では,高2,494石余,戸数311,人数1,905(士族578・平民1,327)。弘化4年の「松山神主檀方帳」によると,門・屋敷数53,名子数120である(松山町史)。明治4年鹿児島県,都城県,同6年宮崎県を経て,同9年鹿児島県に所属。同16年からは南諸県郡のうち。同22年松山郷3か村は松山村となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7463395