伊原間村(近世)

王府時代~明治41年の村名。八重山島宮良間切のうち。村落の発祥は未詳だが,雍正12年(1734)には人口168で,この村には役人は置かれず,平久保村の役人が管轄した。しかし平久保村までは2里あり,諸上納物にも支障があった。この地は耕地も広く,石垣島南部の石垣・登野城【とのしろ】両村の百姓が平久保半島東海岸の安良崎やトムル崎に140人ほど住んで耕作していた。そこで雍正12年に上申して,石垣・登野城両村のこの人々をそのまま寄百姓とし,与人・目差を置いて立村した。伊原間村の与人・目差は安良村・富盛村をも管轄することになった(参遣状/喜舎場家文書,八重山島年来記/県史料前近代1)。乾隆2年(1737)の調査報告では,人口298(伊原間190・船越108),伊原間の村廻りは13町で,村番所があり,畑地も広く薪木も入手しやすく住みやすいという(参遣状/喜舎場家文書)。同15年の人口は604で,同18年には安良村へ48人寄百姓した(八重山島年来記/県史料前近代1)。同36年の明和の大津波では,人口720人のうち625人が溺死し,家130軒・牛22頭・馬11頭などが流された。畑は479町余のうち156町余の作物に被害が出,畑122町余・田13町余が流されて当分は耕作不能となった。しかし伊原間御嶽は無事だった。翌年,離島の黒島から男女167人を寄百姓し,もとの場所から「亥方三町四拾間,玻名野ト申所」に村落を移した(大波之時各村之形行書/生活史料7)。黒島から強制移住させられた人々の気持を謡った「船越ゆんた」では,島分けした宮里村・仲本村・東筋村・仲里村の人名を具体的に挙げ,これらの人々と島分けを許した役人衆を恨みながら渡ったが,暮らしてみると伊原間・船越も住みよく,粟や黍も実っていると謡う(ユンタ212/歌謡大成Ⅳ)。しかし乾隆57年には大風と疫病流行で飢饉となり,伊原間村杣山筆者登野城仁屋が村の再建に努力し,その功により筑登之の位を授けられた(球陽尚穆王42年条)。道光6年(1826)には与人・目差が村再建の功績で首里王府から表彰されている(梅公姓小宗家譜)。村位は,「里積記」では布・石ともに上位(那覇市史資料1‐2),「人頭税賦課基本台帳」では船越村と2か村で布・石ともに上位,貢租を負担する男女40人と見える(八重山博物館蔵新本家文書)。明治12年沖縄県,同29年八重山郡に所属。戸数・人口は明治13年12・41うち男22・女19(県史20),同26年13・51,同36年16・60うち男34・女26(南嶋探験),同41年26・87(石垣市史資料編)。明治26年8月にこの地を訪れた笹森儀助は伊原間村の廃村を予想している。この時伊原間村の北部のトモリ牧場は141町余で,牛馬591頭がいた(南嶋探験)。明治31~41年の出生28人・死亡25人(石垣市史資料編)。明治27年の反別は田11町余・畑6町余(八重山島統計一覧表),同36年の民有地総反別785町余うち田8町余・畑10町余・宅地1町余・山林21町余・原野226町余・牧場517町余(県史20)。明治41年八重山村の字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7463906 |





