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大里間切(近世)


 王府時代~明治41年の間切名。島尻方のうち。大里郡・大里県とも書く(旧記・球陽)。「由来記」での大里間切には,かつての島添大里間切の南風原【はえばる】・真境名【まじきな】・湧稲国【わきなぐに】・平川・高宮城【たかみやぎ】・古堅【ふるげん】・島袋【しまぶく】・嶺井・与那原【よなばる】・大見武【おおみたけ】・板良敷【いたらしき】・仲程・平良【たいら】・稲嶺・上与那原・与那嶺・西原【にしはら】・当間【とうま】の18か村,かつての玉城【たまぐすく】間切の目取真【めどるま】・大城【おおしろ】・稲福の3か村,かつての南風原間切の宮城【みやぐすく】・与那覇【よなは】の2か村,計23か村が見える。乾隆7年(1742)宮城・与那覇を南風原間切に編入(球陽尚敬王30年条)。また与那嶺村は廃村となり,20か村をもって明治期に至る。なお,「中山伝信録」には与古田村が見えるが,比定地は未詳。拝所に御嶽46・イビ3・殿41・ノロ火の神6などがあり,13人のノロが祭祀を行った(由来記)。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。同33年の士族人口比は31%と高く,長堂・銭又やのちの福原などの屋取が形成された(沖縄の集落研究)。土地整理の際,村の統合が行われ,同36年には大里(西原村・南風原村・平良村が合併)・嶺井・古堅(島袋村を編入)・仲間(仲程村・当間村が合併)・高平(高宮城村・平川村が合併)・稲嶺(目取真村・湧稲国村を編入)・大城(稲福村・真境名村を編入)・与那原(大見武村を編入)・板良敷・上与那原の10か村となる。戸数・人口は,明治13年2,064・1万83(男5,080・女5,003),同36年2,567・1万2,590(男6,405・女6,185)うち士族761・4,011。明治36年の民有地総反別1,536町余うち田88町余・畑1,043町余・宅地91町余・山林45町余・原野256町余・雑種地10町余(県史20)。同41年島嶼町村制により自治体の大里村となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7464021