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兼次(近代)


 明治41年~現在の今帰仁村の字名。兼次小学校は,大正8年兼次尋常高等小学校,昭和16年兼次国民学校となる。その後,昭和20年沖縄戦の戦禍により4教室を残してほとんどが焼失した。同年6月25日兼次を含む今帰仁村西部の住民は,久志村大浦崎へ移動を命じられ,同所に収容された。その際,小学校も大浦崎に置かれ,今帰仁第二小学校と称して再開,のち旧校地に戻った。昭和20年11月2日住民に帰村命令が出され,15日には帰村が完了している(今帰仁村史)。近年では価格の暴落により,山地丘陵地のパイナップル畑が放棄されてきた反面,低地農地の基盤整備の完了とともに,蔬菜作りなどの集約的農業が盛んになりつつある。同54年の農用地面積3,170aうち畑地3,050a・樹園地120a(農業センサス)。世帯・人口は,昭和45年93・320,同55年75・277。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7464146