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下地村(近代)


 明治41年~昭和23年の宮古郡の自治体名。下地間切上地・川満・洲鎌・与那覇・来間・嘉手苅,砂川【うるか】間切宮国・新里・野原の9か村をもって成立。旧村名を継承した9字を編成。役場を上地に設置。明治41年下地村各字合同内規を定め,青年会や協同貯蓄会が設けられて農事奨励や風俗改良を目指した。大正3年基幹道路の改修工事が行われ,平良村と下地村を結ぶいわゆる下地街道の改修が完成した。同8年宮古でコレラが流行し937人の死者が出たが,下地村ではまず与那覇に患者が発生,のち全域に広まり,300人が罹患,111人が死亡した。同10年台南製糖宮古工場が字上地に完成,下地村では最初の製糖工場となる。下地村の黒糖生産高は,明治41年1万563丁,大正6年2万364丁,同10年8,637丁,昭和5年3万4,241丁と推移した(下地町誌)。世帯・人口は,大正9年1,627・8,860,同14年1,757・9,443。昭和11年下地村産業組合結成,同19年解散。昭和15年の戸数1,975・人口1万2,533。同19年5月陸軍の飛行場が与那覇と嘉手苅の一部に設置されることになり,15万5,000坪が強制接収され,小学校3年以上の住民が作業に動員された。ツルハシや大八車による作業により,同年10月には一応の完成をみるが,発着に不便でほとんど使用できず,農地の無用な接収に終わった。のち同55年に,これらの跡地返還などの土地問題は解決された。昭和19年8月第2次大戦による学童の疎開開始。同年10月10日に最初の空襲があり,翌20年に入ると連日空襲を被った。昭和21年の戦争被害調によると,戦争による町出身者の戦死・病死者数は255人で,そのうち町内における死亡者は45人。台湾への疎開者は352人,本土への疎開者は120人で,そのうち死亡者74人。死亡者のうち60人は,昭和20年11月1日,台湾からの引揚げ途中,台湾北部の基隆沖で遭難した栄丸の乗客である。町内では民家759棟が焼失・破壊され,3,140頭の家畜は日本軍へ供出または焼死したほか,耕作地1,613反が損害を受け,山林は日本軍の乱伐のため1,328反が損害を受けた(下地町誌)。同23年宮国・新里・野原および嘉手苅の一部が分離独立して,上野村となり,下地村は6字となる。同24年1月1日町制施行。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7464457