渡嘉敷村(近世)

王府時代~明治41年の村名。久米方,はじめ慶良間島,のち渡嘉敷間切のうち。「高究帳」では慶良間島のうち「とかしき島之内とかしき村」と見え,高頭83石余うち田77石余・畑5石余。「由来記」に慶良間島渡嘉敷間切渡嘉敷村と見える。集落を囲む山地には聖地・御嶽が分布し,「由来記」に13の御嶽と2つの殿が挙げられており,沖縄の村落としても珍しいほど多い。このうち西御嶽は最高の聖地で,北の海を通る中国への貿易船などの海の安全を守護する神とされた。古老の伝承では,かつて祭祀の式次第を知らなかったため,沖縄本島豊見城【とみぐすく】間切座安村から女性を1人招き,祭式の教授を受けたが,この女性の死後,再び豊見城間切の渡嘉敷村から女性を招き,以来村のノロは,その子孫が相続してきているとされる。乾隆49年(1784)渡嘉敷村の新垣筑登之は,薩摩において中国紙を作り国用に供したため御納戸与力となり,名も新垣筑兵衛と変え,薩摩に永住することになった(球陽附巻尚穆王33年条)。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。明治18年小学校設置。同36年小嶺村を編入。戸数・人口は,明治13年106・486(男246・女240),同36年124・809(男387・女422)。明治36年の民有地総反別894町余うち田21町余・畑74町余・宅地5町余・山林481町余・原野311町余(県史20)。同41年渡嘉敷村の字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7464699 |





