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浜村(近世)


 王府時代~明治41年の村名。国頭【くにがみ】方国頭間切のうち。「絵図郷村帳」には,はま村と見える。はじめ屋嘉比村近くの森にあり,のち加名良原に移った(国頭村史)。現在,集落の250mほど東南に「カナラガー」という村落の移動に関する伝承をもつ拝泉がある(沖縄国頭の村落)。その後,現在地に移動したが,加名良原には明治5年まで居住者が残っていた。康煕12年(1673)に国頭間切から田港間切(のち大宜味間切と改称)が分立した際,浜村には国頭間切番所が設置され,間切行政の中心地となった。しかし雍正10年(1732)交通に不便なことなどを理由に,番所は奥間村に移転した(球陽尚敬王20年条)。蔡温の杣山政策の一環として山奉行が設置されたが,のち加増山奉行が設置され,浜村がその詰所となり,国頭・大宜味の両間切を監督した(国頭村史)。乾隆18年(1753)浜村の杣山は国頭在番の所管とされ(地方経済史料9),同治11年(1872)9月8日,暴風雨によって長さ92間・幅34間にわたる山崩れが起こり,加那良原の居住者から5名の死亡者を出した(球陽尚泰王25年条)。御嶽にはヨリアゲ森があり,屋嘉比ノロの崇べ所(由来記)。屋嘉比ノロは,のちに再び大宜味間切に編入される親田・屋嘉比・見里の各村も管掌し,行政的には分断されながらもこの4か村の地縁的・血縁的関係は続いていた(国頭村史)。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。明治14年の「上杉巡回日誌」に「屋嘉比川ノ板橋ヲ過キ,屋嘉比港ニ出ツ,帆檣林立」とあり,山原船が林産物を盛んに積み出していた。同31年,私立の漢学校が開かれた。同34年国頭尋常小学校分教場が設置され,1年生だけが通学(同前)。戸数・人口は,明治13年58・313(男153・女160),同36年77・468(男211・女257)うち士族19・128。明治36年の民有地総反別130町余うち田7町余・畑87町余・宅地4町余・山林4町余・原野25町余(県史20)。地割では,浜村の住民に屋嘉比村の百姓地が割り当てられていたが,明治32年に始まる土地整理の際,田地は屋嘉比村に,畑地は浜村が所有するものと定められた(国頭村史)。同41年国頭村の字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7464936