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桴海村(近世)


 王府時代~明治41年の村名。八重山島,はじめ川平【かびら】間切,崇禎元年(1628)大浜間切,乾隆33年(1768)からは石垣間切のうち。「両島絵図帳」に川平間切ふかい村と見え,高46石余。村の創建年代は未詳だが,以前はヤマバレー(山原)と荒川の間(現在の川平の東端)の「ふかい」というところにあり,万暦47年(1619)に大田兼久に移転した。しかし天啓5年(1625)に大波で流され,同年大原に再移転した(八重山島年来記/県史料前近代1)。順治8年(1651)の人口は,平久保・仲筋の2か村とともに73人(同前)。康煕57年(1718)当地に唐人40人が漂着している(八重山島年来記・御使者在番記/県史料前近代1)。当時は川平村の噯【あつかい】であったが,乾隆3年に134人となり,竹富【たけとみ】島から150人程寄百姓して独立村とすることを申請したが,実現しなかった。同15年には170人となり,西隣の仲筋村と合わせて独立することを再申請した。同18年,仲筋村はやはり川平村役人の噯とし,桴海村へは平得【ひらえ】村から100人寄百姓して,与人・目差を置き独立した(参遣状/喜舎場家文書,八重山島年来記/県史料前近代1)。民謡「桴海布晒節」に桴海村は川平のうちで,癸酉の年に桴海村を立て,富貴の世を賜ってとあるのは,このことを指している(節歌補遺10/歌謡大成Ⅳ)。同36年の明和の大津波では220人のうち男女23人が公事で石垣滞在中に溺死,田1町余・畑1町余が被害を受けた(大波之時各村之形行書/生活史料7)。道光16年(1836)の飢饉では,川平村杣山筆者の上官姓正演が自己のソテツ4,900斤を無償で与え表彰された(上官姓小宗家譜)。しかし疲弊は続き,咸豊7年(1857)には桴海村の与人・目差を廃し,野底村役人が兼務した(翁長親方八重山嶋規模帳)。「由来記」にはイテホタ御嶽・ネハラ御嶽・野城御嶽・半嵩御嶽を挙げているが,いずれも由来不明としている。昭和初期にはニーバル御嶽・前泊御嶽,川平から分祀したというピューズ御嶽とピューズ御嶽の脇御嶽の4つがあり,桴海の本御嶽はニーバル御嶽であるという。乾隆33年の「与世山親方八重山嶋規模帳」では,平久保・桴海・川平・崎枝で行われていた節祭の来訪神マユンガナシの祭祀風習を禁止している(沖縄旧法制史料集成3)。桴海のマユンガナシの神口に,「ペーバグサキカラ,フカイウフバリマディ,マイダフー(平久保崎から桴海大田までマイダフー)」とあって(八重山文化4),石垣島北部が1つの圏を構成していたと考えられる。村位は,「里積記」「人頭税賦課基本台帳」に布・石ともに上位と見える(那覇市史資料1‐2・八重山博物館蔵新本家文書)。明治12年沖縄県,同29年八重山郡に所属。明治13年の戸数16・人口53うち男24・女29(県史20)。同26年8月に桴海村を訪れた笹森儀助は,「南嶋探験」に「海嘯以前大村タリシモ,今ハ荒田畑・宅地ノ跡ニ草樹欝葱タリ。一目,人ヲシテ惨状ヲ哀シマシム」と記している。この時の戸数17・人口64,牧場は糸名にあった。同36年の戸数20・人口72(男30・女42)。明治36年の民有地総反別163町余うち田28町余・畑19町余・山林24町余・原野10町余・牧場77町余(県史20)。同41年八重山村の字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7464995