100辞書・辞典一括検索

JLogos

55

富名腰村(近世)


 王府時代~明治41年の村名。島尻方玉城【たまぐすく】間切のうち。「高究帳」では舟越村と見え,高頭250石余うち田208石余・畑41石余。「由来記」に内間・山川・与那原・上間・奥間の殿が見え,また内間クダ(マキョ)・奥間クダと見えるので,これらのマキョが統合されて村が形成されたと考えられる。旧暦5月の稲穂祭と旧暦6月の稲大祭の時に,稲の豊穣を予祝して謡われる「稲二祭之時,富名腰巫唄」に,これらのマキョ名が見えている(ウムイ37~42/歌謡大成Ⅰ)。船越は肥沃なジャーガル土壌の低地でありながら,麦・粟の耕作に適したマージの石灰岩台地に位置する糸数村より開発が遅れ,未耕地が多く残されたが,これらは近世を通じて村に居住する間切役人階層の仕明地として開拓されていった。例えば嘉慶24年(1819)に大田原・佐宇次原・川田原の湿田8,408坪を産米計70石余の水田とした(球陽尚灝王20年条)。道光7年(1827)には,富名腰村・前川村・糸数村の産米135石余の田に用水路を設けるなどで,20名が褒賞された(球陽尚灝王24年条)。近世末期に,「フナクシイージョー(富名腰上門)や千反地 福地(上門の分家)は百反地」と謡われた川崎家(屋号上門)は,第2次大戦前まで島尻郡随一の大地主であった。富名腰ノロの崇べ所として,中森嶽・コバウ嶽御イビ・友利門之嶽御イビなど7か所があり,国王の親拝もあった(由来記)。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。戸数・人口は,明治13年187・789(男430・女359),同36年244・1,127(男575・女552)うち士族67・351。明治36年の民有地総反別246町余うち田53町余・畑145町余・宅地11町余・山林6町余・原野27町余(県史20)。同41年玉城村の字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7465009