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真喜屋村(近世)


 王府時代~明治41年の村名。国頭【くにがみ】方羽地間切のうち。「高究帳」では,まきや村と見え,高頭281石余うち田266石余・畑14石余。当時,真喜屋ターブックヮの開発が進んでいたとしても,その生産性は低かった。時期は未詳だが,稲嶺村を分村。康煕61年(1722)の凶作に,真喜屋村の古我知親雲上が,各戸に2~3升の米を給して救済したという(球陽尚敬王10年条)。嘉慶元年(1796)加佐名盛原でまぐさを刈っていた農民が落雷を受け,死亡している(球陽尚温王2年条)。道光15年(1835)真喜屋・稲嶺両村が,おいす川山(藪山)3万5,000坪の作職御免を願い出ており,同24年には真喜屋村が,ひしりへり山3万5,000坪での4年間の開地作職御免を願い出ている。また,同28年おたんにや山杉木敷111坪などが御禁止敷となり,材木の伐採が禁じられた(地方経済史料9)。同治12年(1873)と思われる杣山境界についての訴えは,仲尾次村のオイシ川山・アラマタ山の計4万坪を真喜屋村が開地または藪山に仕立てたという訴えで,山奉行の裁定により,仲尾次村が勝訴している(同前)。小字真美田・仲田・前田には仕明地が見られ,道光20年の「仕明請地帳」が残る。集落内を北流する灌漑用水路のハーヌマタビより下手には,水田を守るために家を建てない慣習があった。拝所に,真喜屋之嶽・マテキヤ嶽・真喜屋ノロ火の神と神アシャギが2つあり,真喜屋ノロの祭祀。同ノロは,瀬洲・源河・仲尾次の3か村の祭祀も司った(由来記)。真喜屋之嶽のすそにノロガーの拝泉があり,ノロ殿内と真喜屋子殿内が残り,それに続く台地一帯が古島と伝える。乾隆53年(1788)の「御神拝年定帳」や道光20年(1840)の「仕明請地帳」などが伝わる。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。明治16年の調査によれば,地割は年齢に関係なく人頭割であった(県文化財調査報告書6)。古老の話では,土地整理の際の地割も旧例のとおり,真喜屋・稲嶺の地割地を400地とし,家族3人で1地,性別・年齢に関係なく配当され,端数は1人3分3厘と計算したという(沖縄の社会と宗教)。戸数・人口は,明治13年154・911(男448・女463),同36年226・1,336(男663・女673)うち士族3・45。明治36年の民有地総反別211町余うち田52町余・畑53町余・宅地7町余・塩田2反余・山林12町余・原野85町余(県史20)。同41年羽地村の字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7465087