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宮川の渡し
【みやがわのわたし】


宮川にあった伊勢参宮街道の渡し。上の渡しと下の渡しとがあった。上の渡しは,右岸の山田中島と,左岸の川端村とを結んだ参宮本街道の渡しで,柳の渡しとも呼んだ。川端側にヤナギの木がたくさんあったことによる。下の渡しは,右岸の山田中川原(伊勢市宮川2丁目)と左岸の小俣(おばた)村(度会郡小俣町小俣)とを結んだ参宮北街道の渡しで,桜の渡しとも呼んだ。山田側に桜の木があったことによる。渡しは,神宮鎮座に始まると推定されるが,文献による初見は,「太神宮諸雑事記」に「天平宝字二年九月,御祭使祭主清麿卿参宮之間,度会川之浮橋船乱解天,忌部随身之上馬一匹自船放流斃亡畢」とある。船渡しの規模については,延宝4年の高札によれば,中河原口は渡守6人,舟3艘,ウガヒ舟1,馬舟2,中嶋口には渡守3人,舟2艘,ウガヒ舟1,馬舟1であった。船橋については,山田三方の記録に,天和2年臨時御遷宮の時に山田奉行桑山下野守が発起し,以後御遷宮ごとに船橋を架け渡す例を開始したとある。船賃は,有賃・無賃を繰り返した。室町期には国司北畠氏が渡船料をとっていたが,天正3年織田信雄はこの渡船料を山田三方に寄付,その後,延宝4年両会合申合せで参宮人馳走のため無賃渡船とした。費用は,当初師職より支出したが,のち惣町中の負担となる。明治4年有賃となり,渡船料は1人銭48文。明治になって,幾度か板橋が下の渡しに架けられるが,洪水のたびに流失。上の渡しは明治44年4月の度会(わたらい)橋竣工により,下の渡しは大正8年3月の宮川橋竣工により使命を終えた。しかし,下の渡しでは,宮川橋が永久橋となる昭和28年までは,洪水で橋の破損が生じるごとに渡船が復活利用された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7604470