小河柴目荘
【おがわしばめのしょう】

旧国名:紀伊
(中世)南北朝期~室町期に見える荘園名。那賀郡のうち。柴目小河荘とも見える。元弘3年11月16日の小河柴目番頭百姓等起請文(高野山文書/大日古1‐7),および同日の小河柴目田所快朝起請文(同前)に「小河柴目庄,依為旧領之内,高野山一円御知行之上者,於向後者,不可奉成敵対」とあるのが初見。同年11月18日には小河柴目荘官等起請文(同前1‐8),同年12月14日には僧宗融起請文(同前)が作成され,高野山の支配に服することを誓っている。鎌倉期には「小河・柴目両村」と村名で並記されており,石清水八幡宮と高野山の境相論の対象となった地域で,高野山は所謂「御手印縁起」内の地と主張していた。康永3年7月24日の小河柴目給主僧真祐請文(同前1‐7)には「柴目・小川両村事」とあり,両村の預所を拝領している。しかし,建武3年の学侶評定事書(同前1‐6)によれば,同4年秋ごろ「員外之輩」と呼ばれる高野山の支配に反抗する勢力が,那賀郡の野上・小河柴目・貴志の各荘や在田(ありだ)郡の石垣・阿氐河の各荘などで濫妨を行っており,高野山の支配は危機にひんしていたことがわかる。下って正平17年7月6日の高野山大集会評定事書案(飛見家文書/県史中世2)によれば,この大集会評定で西院・南谷・中院・谷上の4か院が寺領を分配しており,「柴目小川」は谷上に配分されている。室町期応永6年6月8日の西塔供養荘官引馬支配帳(高野山文書/大日古1‐1)には「柴目小河荘」とあり,下司・公文など荘官の馬が書き上げられている。同7年正月18日の高野山金剛峯寺々領注文(勧学院文書/高野山文書1)では,当知行分の中に「柴目小河庄」が見える。以降応永10年3月14日の忠済米借用状(高岡家文書/県史中世2)に「おかわのしやうの内さかもとのミやう」とあるのをはじめとして「小河庄」と単独で記されるようになる。応永32年5月26日の天野社一切経会段米納日記(高野山文書/大日古1‐4)には小川荘内の村名が6か村書き上げられているが柴目村は見えず,柴目村は分立して志賀野荘内に含まれたとも考えられるが未詳。荘域は現在の野上町中田・梅本・坂本・福井・柴目・長谷から海南市七山一帯を含む地域に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7605428 |





