日吉炭鉱
【ひよしたんこう】

嘉穂郡の稲築(いなつき)町と嘉穂町にまたがってあった炭鉱。共同石炭が,三井山野・日鉄稲築・古河下山田各炭鉱の境界区域を採掘する目的で,田川郡の島廻炭鉱に次いで大正11年に開設した。同年9月20日共同石炭は,古河下山田坑区のうち7万坪の分割譲渡を受け,嘉穂郡大隈町に事務所を設置し,日吉炭鉱を開坑した(筑豊石炭礦業史年表)。翌12年5月4日,第2坑を開坑して海軍八尺層,こうもり五尺層の有煙炭採掘に着手し,次いで6月9日には日吉第1坑を開坑して土間三尺層・杉谷五尺層の有煙炭採掘に着手した。昭和3年には三井山野の鉱区中,竹谷層群の一部竹巌層および本層群の全部5万坪の分割譲渡を受けて規模拡張を図った。さらに同10年4月には日鉄鉱業稲築炭鉱の鉱区中,本層群の1万4,000坪の請負採掘権を設定し,同12年12月末には古河下山田の鉱区中,本層群の2万8,000坪につき鉱業権を設定して採掘を開始した。この結果,同14年度の出炭は3万2,251tで,同14年6月末の坑夫数は287人であった。同15年2月29日,明石坑を開坑,また日鉄稲築炭鉱の鉱区中,本層群以上17万坪について請負採掘権を設定した。同17年1月14日,稲築坑での請負採掘を開始,才田坑の開削に着手して4月12日に着炭した。同年2月には稲築村に竹藪坑も開坑し,年間出炭は3万6,865tであった。翌18年には,三井山野の鉱区中2万2,000坪について鉱業権を設定し,同19年8月2日には才田坑で海軍八尺層新坑を開削した。このような増産態勢の結果,この年の出炭は4万9,241tとなり,同年9月末の労働者数は421人(うち女子150人)であった。第2次大戦後は傾斜生産の下で,島廻炭鉱とともに復金融資の対象として生産の回復を図ったが,同24年8月22日,日鉄鉱業鉱区中17万坪について使用権を設定するなど,積極的な規模拡大策を採った。同26年12月末の各炭鉱の鉄柱使用状況調査によると,大手炭鉱以外は鉄柱が普及していなかったこの時点で,筑豊の中小炭鉱では日吉炭鉱だけが在籍150本と記録されている(同前)。同29年10月には折からの石炭不況の中で,島廻炭鉱と合わせて職員22人の希望退職を募集したが,同31年度には399人の常用労働者で8万5,100tを出炭して,第2次大戦前の規模の約2倍に達した。さらに同35年3月末の通産省の調査によれば,2万2,442a(約67万坪)の鉱区に,竹籔坑,杉谷の二尺坑・五尺坑,1坑・大谷坑など5つの斜坑を擁し,一部で鉄柱・カッペ採炭を実施して昭和34年度には491人の労働者で10万2,000tの出炭を上げている。この頃から石炭鉱業をめぐる経済環境は極度に悪化し,賃金・退職金その他の労働条件をめぐる労使の紛争が激化し,日吉炭鉱労組も島廻労組とともに合理化反対闘争などを展開した。しかし生産は同36年度に13万6,621tに増大し,年度末人員は509人となった。九州石炭鉱業連盟の調査によると,同37年10月の日吉炭鉱の1人当たり能率は20.3tに達し,また,同39年5~6月の日吉炭鉱労働者の平均月収は2万7,700円で,三菱・古河など中央大手労働者に比較して約2割方低いが,争議中の大正鉱業よりも高かったので労働者の確保と増産が可能であったと考えられる。同40年2月1日の福岡通産局調査によると,日吉炭鉱は月間出炭量1万5,100t,実働労働者630人と過去最高であった。このようにして大手炭鉱鉱区の境界部分の残存炭層を50年近く採掘し,最後は年産16万t台に到達した日吉炭鉱も,同43年8月19日,石炭鉱業合理化事業団による閉山交付金が決定し,閉山となった。年産16万5,920t,労働者数546人であった。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7607314 |