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英田保(中世)


 鎌倉期から見える保名。加賀国加賀郡英田郷のうち。南北に分かれており,それぞれ南英田保(英田南保)・北英田保(英田北保)と呼ばれた。「平戸記」仁治3年5月28日条に「自梶井宮給御使,恵心院領英太保造白山社役事,所被仰也」とあるのが初見。正中2年11月25日付の梶井門跡相承荘園御領目録には「恵心院……加賀国英太南保〈便補専寺御封〉同北保〈便補法勝寺常行堂御封〉」とあり,英田保は梶井門跡相承寺院の1つである恵心院の所領で,このころ,英田南保は三千院の,英田北保は法勝寺常行堂の経費にそれぞれあてられていたことが知られる(三千院文書)。北英田保は賀茂別雷社領金津荘と隣接しているが,正安2年3月23日付の関東下知状によると,北英田保の地頭代覚信と金津荘雑掌法眼祐豪が訴訟を行っている(温故古文抄)。紛争点は,河北【かほく】潟が干上がってできた土地の帰属や両荘の境界をめぐる問題であった。北英田保地頭代覚信の名が見えるが,この覚信がいかなる者で,また鎌倉期の地頭がだれであったかは不明。南北朝期には富樫氏の一族が当保の地頭となったとみられ,守護富樫昌家の弟富樫満家は英田小次郎を名乗っている(宇ノ気町史)。康永3年10月10日付の梶井門跡尊胤法親王令旨で英保内萱野【かるがの】が祇園社祈祷領所として安堵されているので,萱野はこれ以前に梶井門跡から祇園社に寄進されたのであろう(祇園社記)。至徳2年7月24日付の室町幕府管領奉書によると萱野は守護富樫昌家の被官河口氏らに押領され,祇園社の訴えにより,室町幕府は守護富樫氏に押領の停止を命じている(同上)。萱野に限らず,南北朝期以降は,在地武士による荘園領主権の侵害が進行したと思われる。文明6年12月24日付の富樫政親安堵状によると,「河北郡英田庄内指江村」が槻橋兵庫允に安堵されているが,ここでは英田荘の地名が見える(北村文書)。指江【さしえ】村は現宇ノ気【うのけ】町大字指江付近であろう。また,文明17年11月23日付の足利義尚安堵状には「英田下」の地名も見える(三千院文書)。一向一揆体制下では英田保は河北五番組に属した。現在の宇ノ気町南部から津幡【つばた】町北部にかけての一帯に比定され,北英田保は現在の宇ノ気町大字気屋【きや】・上山田・下山田・狩鹿野【かるかの】・多田・指江の付近に,南英田保は現在の津幡町大字能瀬【のせ】・加茂・舟橋の付近に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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