狩野荘(中世)

鎌倉期から見える荘園名。田方郡のうち。「吾妻鏡」文治4年6月4日条に引く同年5月12日付権右中弁定長奉書(後白河院宣)に,年貢を抑留された荘園の1つとして「蓮華王院領伊豆国狩野庄」が見える。伊豆の豪族狩野氏の本拠であった。狩野氏は藤原南家武智麻呂の流れで,工藤氏を称した為憲以来,駿河に勢力を有し,維職の代に伊豆国押領使となったと伝えられる。その後,維職の孫茂光は狩野氏を名乗り,その子息宗茂は狩野介を称したといわれる(工藤二階堂系図/続群6下)。「保元物語」によれば平安末期の嘉応2年春の頃,狩野介某が茂光に所領を押妨せられたことを上洛して訴えており,当荘の成立もこの頃までは遡り得ると考えられる(伊東市史)。狩野氏は,はじめ現在の修善寺町大字日向【ひなた】に居住し,後に天城湯ケ島町本柿木に移ったという(中狩野村史)。本柿木には現在もその城址が残っている(城郭大系9)。当荘の荘域は律令制下の「和名抄」狩野郷を引き継いだといわれる(地名辞書)が,史料に徴してみると次のようである。「吾妻鏡」嘉禎元年8月21日条には「狩野庄内牧郷」(現修善寺町大字牧ノ郷)の地頭職相論がみえ,観応3年2月26日伊豆守護畠山国清遵行状には「狩野庄熊坂村」(現修善寺町大字熊坂)(相模文書/神奈川県史資料編3),暦応3年5月17日足利直義下知状(田代文書/大日料6-6)や天正18年4月の豊臣秀吉掟書(天城文書/県史料1)には「田代郷」(現修善寺町大字田代)を当荘内としている。また元亀2年4月20日北条家朱印状には「狩野内立野」(現修善寺町大字本立野・小立野付近)がみえ(判物証判写/大日料10-6),小田原北条氏の「役帳」には御馬回衆山角四郎左衛門の役高に「豆州狩野 田沢」(現天城湯ケ島町大字田沢)がある。上記の如く,当荘は狩野川流域の地で,現在の修善寺町と天城湯ケ島町にわたっており,戦国期にはしばしば単に地域名として狩野と呼ばれた。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7616550 |