隋はなぜ、わずか40年で滅んだのか


◎大運河の建設で中国世界を拡大したが…
隋は、約370年ぶりに中国の南北を統一し、現物での徴税(租・庸・調制)と農民の徴兵(府兵制)を組み合わせた農業帝国の体制を整え、中国史に大きな足跡をのこしたものの、わずか38年で滅んだ。
父の文帝と兄の皇太子を殺害して第2代の皇帝となった煬帝は、幅30~40メートル、全長約1800キロもの大運河を建設し、物資の豊かな江南と政治・軍事の中心地の華北を結びつける大動脈とした。その建設には、常に100余万人の民衆が動員されたという。
だが遊び好きの煬帝はこの運河を遊興に利用した。彼が江都(揚州し)の離宮に出向く時には、金銀で装飾した4階建て120部屋の龍船など数千隻が運河に浮かび、8万人余の農民に船を引かせたといわれている。
また、3度の高句麗遠征の失敗も隋の滅亡を早めた。隋は、高句麗を外藩国として封じたが、高句麗はいっこうに朝貢使を遣わさず、それどころか隋と対立していた突厥と連携する動きを示した。帝国の威光を踏みにじられた煬帝は、610年以降、大軍を高句麗に派遣するが、いずれも失敗に終わってしまう。
◎離宮で暗殺された煬帝
こうした大土木工事と相次ぐ遠征の過重な負担に耐え切れなくなった農民の大反乱が広がる。最後の遠征の4年後に、ぜいたくな離宮から動こうとしない煬帝が近衛軍に殺害され、隋は滅亡した。
ちなみに、隋王朝を創建した文帝は、北周の随国公の出身であるために国号を「随」としたが、この文字にある「シンニュウ」は足であり、これがあると帝国の滅亡が早まると考えてシンニュウを取り、国号を「隋」とした。しかし、実際には急速な中華秩序の再編の試みが民衆を苦しめ、わずか2代で滅亡してしまったのである。
◎約300年続く唐の建国
隋末の大混乱が続くなか、隋の唐国公であった李淵が力をのばしていく。彼は一度、煬帝の孫を皇帝とし、この孫から帝位を譲られる「禅譲」という手続きを行なって618年に「唐」朝を開いた。以来、唐は、約290年間続くことになる。

![]() | 日本実業出版社 「早わかり世界史」 JLogosID : 8539734 |