チンギス・ハンの軍隊が強かった秘密


◎苦難の青年時代を過ごしたチンギス・ハン
12世紀のモンゴル高原は、戦国時代ともいうべき群雄割拠の時代であった。当時、モンゴル高原を支配していた東北部(満州)の金が、強大な対抗勢力の出現を恐れて、部族間の対立をあおったためである。
そうしたなかで頭角を現したのが、「草原の青い狼」を祖先にもつという名門キャン氏族のテムジン(鉄の人の意味)であった。
テムジンは、幼時に父親が毒殺されて苦難の少・青年期をすごし、45歳をすぎてからモンゴル高原の諸部族を統一して覇者となり、1206年にオノン川の辺で開かれたクリルタイ(集会)でモンゴル帝国のハン(可汗、「王」の意味)の地位についた。その際に、部族のシャーマン(巫師)から「チンギス」(光の神の意味)の称を受け、以後、チンギス・ハンと称するようになる。
◎モンゴル軍の部隊のつくり方
チンギス・ハンが登場するまで、モンゴルでは諸部族の独立性が強く、部族長の集会(クリルタイ)で指導者の選出や征服活動を決めていた。それに対してチンギスは、旧来の部族を解体して草原社会のルールを一新した。
彼は、敵対国・金の軍事制度を取り入れ、十進法にもとづいて10戸、100戸、1000戸、10000戸の単位に分け、腹心の部下をそれぞれの長として派遣することで中央集権体制を整えた。チンギスは厳しい軍律をしき、千戸長といえども厳しく処罰したので、強力な軍隊が急きょ出現することになった。
◎4倍の軍に立ち向かったチンギス・ハン
12世紀のユーラシアは「大分裂」の状態にあり、強力なモンゴル人の軍事集団が大帝国を樹立できるような環境ができあがっていた。
中央アジアの大商業ネットワークの支配をめざしたチンギスは、シルクロード東部を支配する西夏を攻撃する一方で、西アジアの新興勢力であるトルコ人のホラズム帝国との協調をめざした。しかし、イスラム商人を中心とするホラズムへの使節団がオトラルで殺害されて贈り物が奪われ、再度の使節が大切なヒゲを切られるという屈辱的な扱いを受けるに及び、悔し涙を流して雪辱を誓ったチンギスは、10万人の軍を率いて40万人の軍事力を有するホラズムの征服に向かった。
通商路に沿って攻め込んだチンギスは各地でホラズム軍を破り、1220年にホラズム帝国を倒した。別動隊は1225年に南ロシア平原を征服する。その後、1227年には東の西夏を滅ぼし、シルクロードと草原の道は完全にモンゴル帝国の支配下に入った。
チンギスは所期の目的を達した1227年に、落馬した時の傷がもとで世を去った。その死体はブルガン山の麓に葬られたが、遊牧民の習慣で埋葬した土地を平にならしてしまったために、その墓の所在は明らかになっていない。世紀の風雲児は、人知れず静かに土に帰り、広大な所領は4人の子に引き継がれることになった。

![]() | 日本実業出版社 「早わかり世界史」 JLogosID : 8539755 |