早わかり世界史 第2章 一体化するユーラシア世界 7.遊牧民が活躍する時代 352 モンゴル人が築いた世界規模のネットワーク ◎黄金を頭に載せていても安全な大道路網 モンゴル帝国の時代は、ユーラシアを結ぶ主要な陸路・海路が帝国の統治下に入り、今までにない緊密なかたちで陸・海の「円環」ネットワークが結びつきを強めた。中国の大道路網、シルクロード、草原の道、イスラムの大道路網が結合され、ユーラシア全土を結ぶ陸の大ネットワークが出現したのである。 陸上の幹線道路には約40キロごとに站(駅)が設けられ、人馬や食料が蓄えられていた(駅伝制=ジャムチ)。交通路を往来する官吏・使節には特別の通行証が与えられ、ハンの急使などは馬を乗り継いで、1昼夜に450キロを走破したという。 モンゴル帝国勃興の情報がキリスト教世界に伝えられると、十字軍運動のさなかにあったローマ教皇は、モンゴル人との同盟の可能性を探り、モンゴル帝国内でのキリスト教の布教をめざしてプラノ・カルピニを派遣し、フランス王も使節ルブルクを派遣した。 また、マルコ・ポーロもこの時代にやってきた。彼は商人として父親とともに元朝にいたり、17年間役人としてフビライに仕えた。彼は、1292年にイル・ハン国に嫁ぐ王族の妃を送って海路ペルシア湾に戻り、ヴェネツィアに帰った後、有名な『東方見聞録』を著している。 モンゴル人の管理下の中央アジアの交易路は、「黄金の板を頭に載せて歩いても安全である」といわれるほど安定しており、ユーラシア各地の商人が往来した。◎世界の海ともつながった大都(北京) 元とイル・ハン国は提携関係にあり、泉州・杭州などの中国の大貿易港とペルシア湾のホルムズなどを結ぶ海上交易が盛んに行なわれて、ハンの一族も積極的に貿易に従事した。 教皇の宣教使節団の一員としてイル・ハン国に行ったモンテ・コルヴィノは、1294年に海の道を通って大都にいたり、三十数年間大都でカトリックの布教を行なって5000人から6000人の信者を獲得した。また、モロッコの学者イブン・バトゥータは、39歳の時に海路インドからスマトラ、ジャワを経て泉州、大都にいたっている。◎東西文化の交流 イスラム商人や中国商人が、陸・海のハイウェーを利用して活発な商業活動を展開し、諸文化を交流させた。たとえば、元朝ではイスラムの天文学の影響を受けて授時暦という正確な暦がつくられ、それが江戸時代の日本に伝えられて「貞享暦」となった。他方、中国の火薬、羅針盤はイスラム世界に伝えられ、中国の絵画はイランの細密画に影響を与えた。 日本実業出版社「早わかり世界史」JLogosID : 8539757