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宗教改革は一枚の壁新聞から始まった


宗教改革は一枚の壁新聞から始まった

◎プロテスタント(ルター派)の登場

 時はルネサンス、大航海時代まっ盛りの16世紀、メディチ家出身の派手好きな教皇レオ10世は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂を改築する資金を集めるために、ドイツで大々的に贖宥状(免罪符、一片の羊皮紙からなる教会発行の書状だが、それを購入すれば教会に対する善行を積んだことになり、死後天国に行くことが可能になると説明された)を発売させた。

 しかし、ドイツのヴィッテンベルク大学の神学教授であったルターは、1517年にヴィッテンベルク教会の門扉にラテン語で書いた「95カ条の論題」を張り出し、神学的な立場から贖宥状の無効を訴えた。内容は「信仰によってのみ人間は救済される」というものだった。ルターの意に反して、「論題」はドイツ語に訳され、ひと月の間に全土に広まった。

 多くの人々の支持を得たルターの主張を無視することができなくなった教皇は撤回を迫るが、ルターは頑として譲らず、最後には教皇権までをも否定するにいたった。

 彼は教会から破門され、神聖ローマ皇帝カール5世からも、帝国の臣民であることを否定され、「一切の食べ物を与えてはならない」と命ぜられるなど、ひどい弾圧を受けた。しかし、反皇帝派の諸侯や都市の住民、農民など、広範な人々がルターを支持し、ザクセン公フリードリヒはワルトブルクの城にかくまった。

 ルターは聖書をドイツ語訳し、聖書によりどころを求め、「万人祭司主義」で特別の身分としての聖職者を否定する新しいキリスト教を創始した。また音楽好きのルターは、それまで歌い継がれてきた多くの賛美歌に宗教上の意義を与えた。

 ルター派の諸侯は同盟を組織してカトリック支持の皇帝と抗争をくりかえしたが、1555年にカール5世はアウグスブルク宗教和議を出して、「一人の支配者のいるところ、一つの宗教」を原則として、各地の諸侯・自由都市がカトリック、プロテスタント(ルター派のみ)のいずれかを選択することを認めた。

◎資本主義を擁護したカルヴァンの新教

 フランス人カルヴァンは、ルターに共鳴してフランスで改革運動を進めたが迫害を受け、スイスのバーゼルに亡命した。

 彼は神の絶対至上権を強調して、人間は神の道具であると主張し、人が死後に救済されるか否かは神によってあらかじめ決められており、人間のいかなる行為もそれを変えることはできない(予定説)。そのために人間は自己の救済を信じて神の与えた労働に従事し、禁欲的生活を行なうべきであり、その結果として富が蓄積されるならば、それは神が与えた恵みとして祝福されるべきである、と説く『キリスト教綱要』を発表した。

 1536年、カルヴァンは、時計職人の町ジュネーヴに招かれて自分の教義にもとづく政治を行ない、同市はプロテスタント信仰の聖地となった。

 カルヴァン主義は商工業者によって支持され、資本主義社会の精神的支柱となった。




日本実業出版社
「早わかり世界史」
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