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選挙権をめぐって起きた七月・二月革命


選挙権をめぐって起きた七月・二月革命

◎七月革命はブルボン朝を倒しただけ?

 ウィーン体制下でブルボン朝が復活したフランスでは、制限選挙による立憲王政が実施されたが、貴族の権限を強化しようとする国王と、それに反対する議会内の自由主義者の対立が強まっていった。

 1830年の選挙で自由主義者が議席の多数を占めると、国王は議会を解散し、出版の自由を停止し、選挙権に対する制限を強化した。7月になると、それに反発する民衆がパリで蜂起し、国王は国外に亡命した。これがいわゆる「七月革命」である。

 しかし、革命の激化を恐れた銀行家などの上層市民は、革命に列強が介入する危険性を口実に、ブルボン家の分家出身で、自由主義者として知られるルイ・フィリップを新王として迎えた。ルイ・フィリップは自ら「フランス国民の王」と称したが、新しい選挙制度による有権者は全人口のわずか0.6%にすぎず、「金融貴族」と呼ばれる少数の銀行家が政治を左右したので、庶民は王を「株屋の王」とうわさした。七月革命はブルボン朝を倒したにとどまったのである。

◎二月革命でウィーン体制が崩壊

 その後、産業革命が進んだフランスでは、七月革命で成立した政治体制への不満が知識人、労働者の間に高まり、普通選挙権を要求する運動が、「改革宴会」という合法的な集会により展開された。1848年2月、政府がパリの改革宴会を中止させると、怒ったパリの民衆が蜂起し、市街戦に勝利した。

 国王ルイ・フィリップは亡命し、蜂起に立ちあがった労働者代表も参加する臨時政府が成立した。これを「二月革命」という。

 この臨時政府は、失業者を救済するための国立作業場をつくり、21歳以上の男子の普通選挙制を実現した。しかし、全国選挙により穏健派が議会の多数を占めて国立作業場が閉鎖されると、再びパリで労働者の蜂起(六月蜂起)が起こされた。しかし、蜂起は鎮圧され、新たにナポレオンの甥、ルイ・ナポレオンが大統領に選出されることになった。

 二月革命の影響でドイツとオーストリアに「三月革命」が起こった。自由主義運動、ドイツの統一を求める動き、被抑圧民族の自立を求める動きが広がるなかで、ウィーン体制をリードしてきたメッテルニヒはイギリスに亡命し、ウィーン体制は完全に崩壊した。




日本実業出版社
「早わかり世界史」
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