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嵐のような分割はコンゴから始まった


嵐のような分割はコンゴから始まった

◎分割はある新聞記事から始まった

 ヨーロッパ諸国は、1870年代にはアフリカの1割あまりを支配していたにすぎず、アフリカは「暗黒大陸」と呼ばれていた。しかし、1880年代に入ると、急激に分割が進み、1900年ごろまでにエチオピア、リベリアを除くすべてのアフリカが分割されつくしてしまう。

 こうした分割のきっかけになったのが、アフリカ大陸中央部のコンゴ(ザイール)川流域をめぐる紛争だった。1878年にアメリカの新聞記者スタンレーがコンゴ川の流域を探検してその経済的重要性を指摘する記事を書くと、植民地をもたないベルギー王レオポルド2世は、スタンレーを雇ってコンゴ国際協会を組織し、学術的探検を装いながら着々と準備を重ね、1883年に突然コンゴの領有を宣言した。

 一方的な宣言に対してイギリスとポルトガルが強く反発すると、アフリカに植民地獲得の意欲をもつドイツのビスマルクが仲介し、14か国の参加のもとに1884年末から100日以上に及ぶベルリン会議が開かれた。

 この会議では、なんとアフリカ分割のルールが話し合われ、先に占領し「実効ある支配権」を確立した国の支配を認める「先占権」の原則が確認された。

 また、コンゴ川流域の自由な交易を認めるなどの条件を付して、1885年にレオポルド2世の「先占」を認め、私領としてのコンゴ自由国を承認した。この決定が嵐のようなアフリカ分割のきっかけになったのである。

 ベルギーはコンゴ自由国で、天然ゴム・象牙などを税として集め、義務を果たさない場合には殺害するという苛酷な支配を行なった。その結果、レオポルド2世は世界一の財産家となりプレイボーイとして名を馳せるが、王が支配した15年間にコンゴの人口は2000万人から900万人に激減したといわれている。

◎横断するフランスと縦断するイギリス

 アフリカ分割にはヨーロッパの多くの国々が参加したが、中心になったのは1875年にエジプトからスエズ運河の管理権を獲得し、エジプトとケープ植民地を結ぶ「縦断政策」を展開したイギリスと、アルジェリアからサハラ砂漠を横切りアフリカ東岸にいたる「横断政策」を展開したフランスだった。

 1898年に両国の軍隊はスーダンのファショダで衝突したが(ファショダ事件)、翌年フランスが譲歩してイギリスがスーダンを確保した。イギリスはさらに、南ア戦争(ボーア戦争、1899~1902)で、金・ダイヤモンドを豊かに産出するボーア人(オランダ系移民)の2国を併合し、縦断政策を完成させた。




日本実業出版社
「早わかり世界史」
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