カウンセリングの害

カウンセリングについての国民全体の理解が深まっていない現状では,さまざまな誤解がある.説教や人生訓を垂れることがカウンセリングだと信じている人もいるし,無条件の受容がカウンセリングの愛なのだと信じている人もいる.こうした誤解はすぐに誤解だとわかるから,罪は深くはないだろう.
カウンセリングを外科の開腹手術にたとえてみよう.
術前:消毒→カウンセラーの精神的な衛生を保ち,クライエントの精神を「汚染」しないようにする.逆にクライエントの精神病理に「汚染」されないように技術を身につける.
手術中:どこを切れば血が出るか,解剖と病理を知る.→どんな言葉・態度が患者の心を傷つけているのか知る.心が血を流しているのがみえるまで感受性を訓練する.
手術後:しっかり閉じる.→診察室から出るときには,心の傷をしっかり閉じて,新しい「汚染」にさらされないようにする.
手術なら,治療者の操作がどのような結果をもたらしたか,目でみることができる.しかしカウンセリングの場合には,クライエントの心が血を流して悲しんでいても,カウンセラーにみえていないことがある.切れば血が出るということをわかっていない人,またはそのことを頭で理解していても実際にはみえていない人がカウンセリングをしたら,クライエントの心は血まみれになるのである.
ところが,自分にはものがみえていないことを知ることはむずかしいことだ.人は誰でも自分の目にみえているものですべてだと思わざるを得ないのだから,自分の目にはみえていないものがあると知ることは原理的に非常にむずかしいことである.
従って,カウンセラーになるためのトレーニングが必要である.トレーニングの必要のない,天性のカウンセラーという人は確かにいて,その人は心の現象に関して非常に明瞭な視力をもっている.そうでない人は,一度心の視力測定をしてもらいなさいということになる.視力が足りなかったら,メガネをかければいい.よほどの乱視でなければどうにかなるものだと思う.視力が足りないままで運転をしていたら自分も相手も傷つけることになる.

![]() | 丸善 「こころの辞典」 JLogosID : 12020058 |