幻覚

hallucination
①外界に対応する刺激がないのに知覚を生じる現象.周囲の誰にも声が聞こえないのにその人にだけ声が聞こえる場合など.刺激が存在し,別の何かであると知覚するのは錯覚である.他の人たちには電信柱にみえたものが,その人にだけ人影にみえた場合には錯覚と呼ぶ.知覚の正しさは多数決によるものではないのだが,実際上は多数決と常識によっている.クーラーのうなり音に混じるように人の声が聞こえる場合には,機能性幻聴と呼び,病的な場合も正常の場合もある.シャワーの音の中に電話の音が混じりあわてるケースなどは,病気ではない場合でもしばしば生じる.幻覚はさまざまな疾患で生じるが,幻覚体験自体が病的とはいえず,幻覚の内容や持続,さらに背景の病理を検討する必要がある.専門家に相談しておくほうが安心である.また,例えば幻聴を体験している場合,実際に幻聴があることと,幻聴があると妄想していることと区別できるだろうかという問題があり,難問である.例えば「ヒトラーが私に命令している声が聞こえている」と訴える場合,ヒトラーはドイツ語を使っているのか,日本語なのかと問題にすれば,あいまいになることが多い.この場合は「ヒトラーが私に命令しているという妄想がある」と記述した方が適切な場合もあると考えられる.
②「対象なき知覚」,「知覚すべき対象なき知覚」または「対象なき知覚への確信(conviction sur la perception sans objet)」.「確信」を重くみれば,妄想に近づく.知覚は感覚から意味までを含むので,その幅に応じて幻覚も考えられる.空間の特定の場所にはっきりと存在すると固く信じられるものは真性幻覚であり,ひょっとしたら自分のイメージなのかも知れないと思えるものは偽幻覚である.単純な要素的な音が聞こえてくる場合(要素幻覚)から,メッセージを明確にもった言葉が聞こえてくる場合(幻声)まで,さまざまである.メッセージまたは意味がより明確に付与されているほど,妄想に近くなる.入眠時幻覚,出眠時幻覚は寝入りばなと覚醒時に現れる幻覚である.意識レベルが低下しているときに現れるもので,必ずしも異常とは考えられない.幻聴のなかでも幻声が精神分裂病に多い.患者は幻声と会話をしたり,幻声同士がひそひそと自分のことをいっていると悩んだり,自分の考えが声になって困る(思考化声)といったりする.行為批評幻声は,幻声が患者の行為について「便所に行った」「薬を飲んだ」などとコメントを加えるものをいう.幻触は「性器をいじくられる」などという訴えとなる.人間は他の哺乳類に比較すれば圧倒的に視覚の動物であると思われるのに,幻視は幻声ほど問題にならない.それは他者からのメッセージ伝達が音声による言葉を介して行われることが多いからであろう.人間が言葉を頭の中に思い浮かべるとき,文字で,例えば明朝体の青い字でなどは思い浮かべないだろう.考えが文字になってみえるのは,考想可視と呼ばれ,まれである.時間の流れを伴った音声言語で,ちょうど喉を少し震わせて発音するくらいの調子で,言葉を思い浮かべるのではないだろうか.幻視は分裂病よりは器質性疾患で目立ち,例えばアルコール性の幻視では小動物(ネズミやゴキブリ)がみえたり,腕をアリやクモがはいまわっていたりする.またアルコール症では圧迫幻視=リープマン現象が有名で,閉眼させて上眼瞼を圧迫すると,幻視が誘発される.頭のうしろにものがみえるというときは,視界の外に視覚が成立しているわけで,域外幻覚と呼ばれる.幻嗅,幻味については診察室で幻聴,幻触,幻視ほどには問題にならない.

![]() | 丸善 「こころの辞典」 JLogosID : 12020254 |