廓と遊女
【くるわとゆうじょ】

遊女の歴史は古く、『万葉集』一八・四一〇六の歌からその存在が確認される。その後平安時代には「浮かれ女(め)」「遊び女(め)」「遊君(いうくん)」「遊女(いうぢょ)」などと呼ばれ、大江匡房(おおえのまさふさ)の『遊女記』には淀川流域の江口や神崎の遊女のことが記されている。また鎌倉・室町時代になると、多くの遊女の物語が文学や芸能作品の中に現れてくる。『平家物語』に描かれる祇王(ぎおう)や、謡曲『熊野(ゆや)』に登場する熊野、『義経記』の静(しずか)や『曾我物語(そがものがたり)』の虎と少将など、みな遊女である。遊女は色を売ることだけでなく、さまざまな芸能をした。白拍子(しらびょうし)や傀儡(くぐつ)と呼ばれる放浪の芸人が、旅先で芸を売るとともに遊女ともなったことがその背景にある。
安土桃山時代、豊臣秀吉の許可を得て、京都に初めて遊郭が作られた。徳川政権下には京都の島原、江戸の吉原、大坂の新町に公許の遊郭が作られた。遊女は容貌(ようぼう)の美しさはもとより、心のありようから身のこなし、諸芸の修練もして高い教養を身につけ、どのような客に対してもその好みに応じて対応した。このような遊女が三都の遊郭に多くいたが、なかでも最上位の遊女は太夫(たゆう)と呼ばれた。『好色一代男』五・一の「後には様付けてよぶ」では二代目吉野太夫が卑賤(ひせん)な鍛冶屋(かじや)の弟子の恋をかなえてやる話が描かれていて、尊卑貧富を分かたない吉野の遊女ぶりに感激した話としてまとめられている。また、客と遊女とのやりとりには美意識が求められるようになり、「粋(すい)」や「通(つう)」という理念が生まれ、庶民の美意識となっていった。
江戸時代の文学や芸能には遊女や遊郭が多く取り上げられた。近松門左衛門の人形浄瑠璃(じょうるり)には多くの遊女が描かれている。また洒落本(しゃれぼん)という分野の多くは遊郭を取り上げたものである。歌舞伎でも元禄歌舞伎から遊女が重要な登場人物となった。現在見ることのできる歌舞伎の中では『助六』が江戸吉原の遊郭のようすをよく表している。

![]() | 東京書籍 「全訳古語辞典」 JLogosID : 5113479 |