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髻を切る
【もとどりをきる】


髻は冠や烏帽子(えぼし)を頭に留めておくために必要なもので、髪を子供の垂れ髪から髻に結い上げることは、一般の男子にとって成人になったあかしであった。(堂童子(どうどうじ)や牛飼い童(わらわ)は、成人しても垂れ髪のままであった。)
その髻を出家するわけでもないのに切るということは、まっとうな成人男子とは見なされない姿になってしまうことと同じだった。
もしだれかに故意に髻を切られれば、それは許しがたい恥辱となる。
『平家物語』巻一には、「殿下乗合」という話がある。平清盛の孫資盛(すけもり)が鷹(たか)狩りから帰る途中、摂政藤原基房(もとふさ)の行列に出くわした。しかし下馬の礼をとらなかったため、基房の従者たちに辱(はずかし)めを受けた。それを聞いた清盛は怒り、基房への報復を家来に命じる。平家の郎等の武士三百騎は基房一行を襲い、基房の従者たちの髻を切り落としてしまった。
『平家物語』は、「これこそ平家の悪行のはじめなれ」と語る。
『伊勢物語』四~六段は、在原業平とおぼしき男が二条后藤原高子に恋心を寄せる話であるが、その中で、業平が高子のもとに通おうとしていたのを、高子の兄たちが阻止したということが語られている。この話を受け、『無名抄』は「(妹を)奪ひ返しける時、兄人達、その憤り休めがたくて、業平の髻を切りてけり」という事態に至ったと、後日談を付け加えている。
髻を切られた業平は、「髪を生(おほ)さん」ため隠れこもっていたが、この機会に歌枕を見てこようと思い、東北に旅立ったとし、『伊勢物語』の東下(あずまくだ)りの話に結びつけている。
こうした業平の伝承をふまえ、松尾芭蕉は、『冬の日』「狂句こがらしの」の巻で、「髪はやす間(ま)をしのぶ身のほど」という付け句を残している。




東京書籍
「全訳古語辞典」
JLogosID : 5113481