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春秋優劣論
【しゅんじゅうゆうれつろん】


秋山下氷壮夫(あきやまのしたびおとこ)と春山霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)という兄弟の恋争いの神話がある。秋山下氷壮夫のほか多くの神が求婚しても、だれも手に入れることができない神の娘がいた。弟の春山霞壮夫は、母の助力を得てみごと求婚に成功した(『古事記』中巻)。これは春秋を対比的にとらえた古い例であるが、春と秋の情趣の優劣を論じることは一つの伝統になっていった。
天智天皇が、花が咲き乱れる春と紅葉が彩る秋のどちらに趣があるかを家臣に尋ねることがあった。その時、額田王(ぬかたのおおきみ)は、「…秋山そ我(あれ)は」と秋を支持する長歌を詠んだ(→ふゆごもり…〔〔和歌〕〕)。
春秋論は男女が語らう格好の話題にもなった。一人の殿上人(てんじょうびと)が、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)に季節の情趣を語った後、どの季節に心を寄せるかと尋ねた。「春」と答えると、男は、これから春の夜をあなたの記念と思うことにしよう、と言ったことが、『更級日記』に思い出深く記されている。
光源氏の建てた広大な邸宅六条院の南西の一角は、光源氏の養女、秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)の御殿となった。隣り合う東南の一角は紫の上の御殿である。
秋に六条院に里下りをした秋好中宮は、秋の情趣を紫の上に示すため、色づいたもみじを届けた(少女巻)。翌年の春、秋好中宮が、季の御読経(みどきょう)(=宮廷や貴族の邸宅で春秋二回、百僧を招き、大般若経(だいはんにゃきょう)を講じる法会)を催した際、紫の上は満開の桜や山吹を贈った。桜は、秋好中宮の前に置かれると、穏やかな風にはらはらと散って風情を添え、舞人たちは山吹の垣根の陰に舞いながら入っていった(胡蝶巻)。
春秋争いは、王朝の人々の生活を情趣あるものにしたが、決着のつくことではなかった。紀貫之(きのつらゆき)は、ある人から春秋いずれがまさるかと問われ、「春秋に思ひ乱れて分きかねつ時につけつつ移る心は」〈拾遺・雑下・五〇九〉と答えている。




東京書籍
「全訳古語辞典」
JLogosID : 5113506