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歌の父母


『古今和歌集』仮名序に、「難波津(なにはづ)の歌は、帝(みかど)の御初(おほむはじ)めなり。安積山(あさかやま)の言葉は、采女(うねめ)の戯(たはぶ)れより詠みて、この二歌(ふたうた)は、歌の父母(ちちはは)のやうにてぞ、手習(てなら)ふ人の初めにもしける」とある。平安時代には、「難波津」の歌は「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」、「安積山」の歌は「安積山影さへ見ゆる山の井の浅くは人を思ふものかは」の歌として解されていて、書の手習いをする際に最初に学ぶ教材とされていた。『枕草子』の「清涼殿の丑寅のすみの」の段に、「難波津も何もふと覚えん言をと責めさせ給ふに」とあり、古歌の最低限の知識とされている。また、『源氏物語』若紫巻に、「難波津をだにはかばかしう続け侍らざめれば」とあり、紫の上は幼くて、まだ「難波津」の歌さえ満足に書けないといっている。
「難波津」の歌は、これを記した木簡が近年数多く出土して話題になっている。『古今和歌集』仮名序には平安時代中期のものといわれる古注が付されているが、そこに、「難波津」の歌は応神(おうじん)天皇の崩御後、後の仁徳(にんとく)天皇と弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)とが互いに東宮を譲り合って皇位につかなかったので、王仁(わに)が懸念して詠んだ歌とある。王仁は応神天皇の御代に百済(くだら)から渡来した学者で、『論語』『千字文(せんじもん)』などの漢籍をもたらしたといわれる人物である。
また、「安積山」の歌は、『万葉集』一六・三八〇七の「…浅き心を我が思はなくに」が本来の形であり、詠作の事情について『万葉集』の左注や『古今和歌集』仮名序の古注に伝承が記されている。葛城王(かつらきのおおきみ)(橘諸兄(たちばなのもろえ)か)が陸奥(みちのく)に派遣されたとき、国司の応対が粗略だと怒って宴席の座興がのらなかった折に、都で采女(うねめ)だった女性が、左右の手に杯(さかずき)と水を持ち王の膝(ひざ)をたたきながらこの歌を詠んで、王の機嫌を直したという(→あさかやま…〔〔和歌〕〕)。




東京書籍
「全訳古語辞典」
JLogosID : 5113509