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阿吽寺
【あうんじ】


渡島(おしま)地方松前町字松城にある寺。高野山真言宗。山号は海渡山。本尊は不動明王。永享5年あるいは嘉吉3年の頃,津軽十三湊に拠っていた蝦夷管領安東盛季と隣接の南部氏が武力衝突し,安東盛季は蝦夷地に敗走した。その渡島の際,津軽相内にあった安東氏の菩提寺阿吽寺の寺僧や山王坊が,安東氏の遠祖安倍貞任以来伝わっていた如意輪観音と本尊不動明王像を奉持して,現在の上磯町茂辺地に上陸して阿吽寺を構えた。茂辺地にあって阿吽寺は安東氏の一族たる下国家の菩提寺として機能するかたわら,対アイヌとの抗争や日々の漁活動にも真言寺院として,その祈祷をよくした。武田氏が大館に拠点を持ち,阿吽寺も永正9年までに大館へ導引されていき,以後,武田・蠣崎氏の祈祷寺として位置付けられていった。すなわち,永正10年,松前3代蠣崎義広の弟高広は剃髪して永快と号し,大館内に阿吽寺を再興した。天正17年,3世快祐の代に失火により堂宇を焼失。元和5年,4世賢祐の代に松前7代公広が福山城の鬼門の守護とするべく,大館から全ての伽藍を海岸部に移転させる寺町造成の策に出たため,阿吽寺も現在地に移った。正保3年,5世日宥の時,火災に遭って記録類を焼失。万治3年と弘化3年にも堂宇の焼失に遭っている。近世を通じて,松前藩の祈祷寺として十全に機能し,修験者や神社との接点の役割も果たしていた。それゆえ藩の待遇も藩主の菩提寺たる法幢寺と並んで優遇され,藩は財施として洗米を支給した。その量は宝暦8年が玄米19俵,享保年間~文化3年が40俵,文化4年に30俵,文政6年には40俵であった。藩による経済的外護に支えられて,阿吽寺は近世に6末寺を造営した。明治2年の箱館戦争によりまたも焼失したが,松前修広が再建した。明治4年,管理する勝軍地蔵堂と末寺の万福寺(元和2年の創建)・慈眼寺(文亀2年の創建)を合併。明治以降,一般の菩提寺となり,明治26年頃の境内地は1,532坪,檀家数は100余戸,昭和38年が245戸。本尊不動明王は参拝者の穢れをはらう一名焼松不動ともいわれる。また寺内の八十八か所の霊場も檀信徒を超えて信仰を集めている(松前町史・北海道寺院沿革誌・北海道宗教大鑑)。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7000047