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臼尻場所
【うすしりばしょ】


(近世)江戸期の場所名。はじめ東蝦夷地のうち。箱館六ケ場所の1つ。寛政12年村並となったが場所名は存続。同年旧尾札部場所を尾札部・臼尻・鹿部の3場所に分割して成立。南東に尾札部場所,北西に鹿部場所と接し,北は内浦湾,東~東南は太平洋,北東は海上を7~8里隔てた室蘭の祝津志岬に面する。一本木岬の北西4里半にある臼尻湾は当場所で最良の船掛澗である。北東に開けるこの湾は東西13町・南北15町・深さ40尺余あり,しかも湾内東方に風避けの役目を果たす弁天島があることから,800石積の船7・8艘が繋泊でき,また1,000石以上の船は2町程沖に繋留しうる港である。この臼尻湾を分岐点として,尾札部までの海岸は背後に台地とさらに後ろに100フィート以上の樹木の嶺が連なっている。一方,鹿部に至る8里の海岸は礫浜が続き,沿岸は岩礁に富む(初航蝦夷日誌・地名辞書)。場所の区域は「初航蝦夷日誌」によると,磯谷の北西の外れ・トコロ川~尾札部場所河汲の外れ・明神社までである。「天保郷帳」では板木・熊泊・磯谷となっている。また,場所内にはアイヌ居住地が3か所あった。当地は鰯・鱈・昆布漁が盛んに行われ,昆布漁の時期になると箱館近辺からの出稼者で溢れ,昆布の干場に難渋し,小屋の屋根の上まで昆布を干したという。この三漁業の中で特に新鱈は第一の産物で,漁期には箱館の懸かり役人1人・下役2人が出張して来て取り締り,役金を徴収した。当地には寛政12年改になる村割金12両2分,夷人歩役12両2分のほかに,さらに60両にも上る新鱈冥加金が課せられていた(初航蝦夷日誌)ことからも,その隆盛の程がうかがわれ,天保年間頃には400~500石積の新鱈船が臼尻湾に2艘入港し,辛塩切り製の鱈を積んで江戸へ直䑺したといわれる(松前国中記)。また,この時期には当場所の小川幸吉が尾札部の飯田与五右衛門と図り,南部の田鎖丹蔵の指導のもと,大謀網を使い鮪漁を試している(近世渡島地方史)。その他の産物は鰊・数の子・鱒・鰤・・鯣・油コ・雑魚類などである。鰤漁については嘉永元年に試みられたが失敗している。安政元年の出産高は元揃昆布4,600把・駄昆布47駄・布海苔550貫・蛸25石・鰯粕60石・鱈3,240束・鮊140束・鮭2,320束・煎海鼠212斤+60本をみた。同年の漁具は筒船2艘・持符船41艘・磯船46艘・鰯引網2投・鰊差網450枚・鱈釣延縄615であった。他に弁財船が1艘あり,馬も52匹いた。当然,こうした産物を目当てに商人も移住し,商人を含めた当場所の戸口は文化8年では35戸・126人(男71・女55),安政元年ではアイヌ(臼尻のみ)16戸・48人(男23・女25),和人51戸・271人(男152・女119)に達した(初航蝦夷日誌・吹塵録・嘉永七年六ケ場所書上)。こうした増加傾向は同地が安政5年「村」と唱えられるようになってからも変わらない。翌6年からは臼尻場所は盛岡(南部)藩の警衛地となる。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7000843