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ヲタルナイ
【おたるない】


(近世)江戸期~明治3年の村名。西蝦夷地,はじめヲタルナイ場所,慶応元年村並となる。クツタルウシともいい,小樽内・穂足内とも書いた。後志(しりべし)地方北東部,石狩湾沿岸の於古発川河口右岸。現入船付近。地名の由来には,アイヌ語のヲタルナイ(砂の解ける小川の意)による説(蝦夷地名考并里程記),ヲタルーナイ(砂路沢の意)による説(西蝦夷日誌),オタナイ(砂川の意)による説(北海道蝦夷語地名解),オタオルナイ(砂浜の中の川の意)による説(北海道駅名の起源・小樽市史)などがある。古名のクツタルウシはクッタルウシ(イタドリが多くある所の意)に由来する(蝦夷地名考并里程記)。本来ヲタルナイは銭函東方の新川(もとの小樽内川)付近を指した地名。江戸中期場所請負制の確立過程で,鯡漁の盛況とともにヲタルナイ場所の中心が当地クツタルウシに設定され,アイヌも移住させられたという(北海道蝦夷語地名解)。以降ヲタルナイ場所の運上屋所在地であるクツタルウシもヲタルナイと称するようになった。元禄13年「松前島郷帳」に見える「おたる内」は銭函東方のヲタルナイを指すと思われ,「天保郷帳」では「ヲタルナイ持場之内,クツタルウシ」と見える。寛政4年「西蝦夷地分間」によれば,ヲタルナイ場所の運上屋所在地クツタレシとある。同9年「松前地並西蝦夷地明細記」に「ヲタルナヱ,当所運上屋有り……此処山近く木有」と見える。「遠山・村垣西蝦夷日記」では「ヲタルナイ,地名クツタルウシと申所に運上屋一軒,蝦夷家八軒有之候。此処東北に海を請,海中磐石少く,波当り薄く,船大小共懸り宜く御座候由」とある。アイヌ住人があったことがわかる。松浦武四郎「再航蝦夷日誌」には「ヲタルナイ……此処はクツタルウシが本名にして其ヲタルナイは,是より三り余も東北の方ニ当るニ其地名有。……此運上屋前は船間(澗)別而よろしく……二丁,三丁沖に而千石余の船十余艘もかゝる也。然れども此運上屋元より南の方,二八小屋のうしろ皆峨々たり……己酉(嘉永元年)の四月ニも此処山崩れて三十余人死去し,岸ニつなぎ有船多く破船したりと聞……運上屋,後ろの山に靠り山に添て南向美々敷立たり。長屋,蔵々有り。弁天社,運上屋前ニ小川有。渡りて鳥居有……夷人小屋,此処ニ七,八軒も有る也。支配中凡二十余軒と聞。人別公料のせつ(文化4年~文政4年)百四,五十人。今は六十人斗なると。むかしは此処氏家六右衛門と申人之給所ニ而有しよし也」と詳述される。同「廻浦日記」によれば,運上屋,網蔵,荷物蔵5,米蔵2,仕入物蔵2,莚蔵,賄蔵,雑蔵2,細工蔵,雇蔵,廊下2,早切蔵,鍛冶蔵,弁天社,地蔵堂があり,当地詰合は下役・同心・足軽各1名,住人は26軒・102人。下役は幕府の調役配下の役人で,当地に蝦夷地行政のための役所が置かれていたことがわかる。この頃から幕府の蝦夷地移住奨励策もあって当地方への出稼漁民も急増。場所請負人恵美須屋半兵衛によって運上屋元から山越えしてノプカまで新道が開削され(のちの山ノ上町),海岸が埋め立てられ(のちの港町),架橋が進められ,また福山の商人山田兵蔵や旅籠屋の土着が許可されたことも手伝って漁民・商人の移住が増えた。ただし,アイヌ住人は逆に減少(小樽市史)。安政6年の秋田藩士松本吉兵衛の日記によれば,当地は「春は鯡の大漁場にして誠に繁栄の地なり……鯡は幾重にも山と積。町家も近頃建殖して,当時は町数五町,外に庁町壱里,後ろにコンタン(金曇)町とて遊女町あり。寺は三ケ寺なり。其外当時普請最中にて,長屋造りも多く出来たり。尤呉服屋・旅籠屋・料理やを始,万の商人数しれず……陸も人家多くして道平ら也。実に第一の場所なるべし。山の後ろは熊鹿の荒たる山なりしか,公領となりて(安政2年)より切開て町屋建しといふ。ヲタルナイ家数五百軒もあるべし」と活写されている。西蝦夷地の海産物の生産・加工・集散地として小都市の様相を呈し始めたヲタルナイ(但場所域)の同年の住人は,総数314軒・1,143人(うち永住者171軒706人)に達している。同年山田吉兵衛により勝納(かつない)川左岸に新道が開削され宅地とされ(のちの新地町),その末端に芝居小屋を設ける者があって芝居町とも称された(小樽市史)。村並化に伴い,新たに穂足内御用所・御収納会所が設置され,箱館同様村役人が任命され統治された。慶応3年ヲタルナイの住人は550軒・2,308人(うち永住者324軒・1,412人)。神社は,創立年不詳の弁天社(境内に地蔵堂あり)のほか,慶応元年山ノ上に住吉社,同3年新地に天満宮が創建。寺院は安政4年西本願寺派休所が新地に創建,翌5年願乗寺と改称(のちの本願寺別院),同年曹洞宗竜徳寺,同6年一堂庵(別称小樽御坊,のちの量徳寺),慶応3年曹洞宗正法寺が創立(小樽市史)。同4年(明治元年)新政府は小樽内役所の旧幕臣らを引続き勤務させたが,博徒・浪人および多数の漁民が新税の反対と新政府の布告公開を求めて小樽内役所に押し寄せ,役人らと衝突する事件(小樽内騒動)が発生。同年箱館を占拠していた旧幕府軍が衝鋒隊1小隊と彰義隊10余名を小樽内に派遣。翌2年旧幕府軍は退去,新政府軍に属する松前藩士が進駐した。同年のアイヌ住人は19軒・67人。同年後志国小樽郡に属す。同年旧会津藩士およびその家族あわせて約450名が東京から小樽内に移送された。翌3年余市郡に入植することになる。明治2年銭函に開設した開拓使役所が,同3年旧兵部省小樽役所に移され,小樽仮役所となる。同年小樽となる。同時に市街地に信香・信香裏・金曇(こんたん)・芝居・新地・土場・勝納(かつない)・山上の8町が設置され,ほかに朝里・熊碓・張碓・銭函の4か村が設置された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7001542