100辞書・辞典一括検索

JLogos

43

我路町
【がろちょう】


(近代)昭和26年~現在の美唄(びばい)市の地区名。もとは美唄市のうち美唄地区の一部。当地は昭和16年我路集落に含まれた。地内は1~4条・菊水・公園通り・新町に分かれる。字美唄の地域。地名は大正3年開業の美唄軽便鉄道(のち美唄鉄道)我路駅に由来するが,我路は隣接の東美唄町所在美唄川左岸の支流我路の沢川による。我路は,アイヌ語のカル(凹凸があるの意)の転訛と思われるが(美唄アイヌ語地名考),ガラガラと岩石があるからとする説もある。当地は,明治末期まで美唄川上流域一帯を占めていた桜井農場の一部を,大正2年上流部に飯田美唄炭鉱が開鉱,石狩石炭会社による美唄軽便鉄道開通のめどがたつと同時に農地の一部を市街地化した地域。同3年鉄道が開通し我路駅の開業時には1~4条通りまでバラック建ての家が軒を連ねていた。炭鉱地区の入口にあたるので美唄炭山市街地と呼ばれ,同3年の市街地戸数201・人口911(大正4年空知支庁管内拓殖概観)。炭鉱・鉄道とも三菱合資会社に移管し,規模が拡大するにつれてバラックは本建築となり,病院・芝居小屋などのほか商店が並ぶ。同5年我路巡査駐在所設置,同年美唄炭山郵便局開局(のちの我路郵便局),同7年電話交換事務開始,同年我路小学校創立。同12年の戸数363・人口2,032,劇場2,寺院説教所5,我路駅乗降客数9万9,000人(大正13年沼貝村勢一班)。同15年部制の廃止により22区(我路市街地一円)と呼称。昭和4年大火で204戸焼失,昭和6年再度の大火で76戸焼失。同7年の戸数390・人口2,059(昭和8年町勢一班)。同24年には522世帯・2,543人,三菱美唄炭鉱地区の5,287世帯・2万8,603人を背景に繁栄する。だが昭和30年代に起こるエネルギー消費動向変革の影響で若年人口が流出し,昭和43年我路技芸学院閉校,同36年我路小学校は沼東小学校に統合,跡地に沼東高校を東美唄町地区から移設。同38年美唄南高校の分校を併設するが,同41年沼東高校は閉校。同44年南高校の分校は美唄聖華高校として独立し共練町地区に移転。昭和40年の世帯数614・人口1,799。同47年三菱美唄鉱の閉山で商店街は打撃を受ける。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7002310