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北見道路
【きたみどうろ】


旭川と網走を結んだ道路。全長57里余。明治24年に完成した道内初の内陸横断道路の一部で,札幌から旭川を経て網走に至る。開通時の道筋は,その後の改修工事などで多少変化した。概略の路線は旭川市から石狩川沿いに上川町―北見峠―丸瀬布(まるせつぷ)町―佐呂間町字栄市街(以上国道39号・273号および333号),栄市街~留辺蘂(るべしべ)町(主要道道留辺蘂浜佐呂間線),留辺蘂町~端野(たんの)町字緋牛内(ひうしない)(国道39号),緋牛内~網走市字二見ケ岡(主要道道網走端野線ただし開通時は内陸部を迂回した),二見ケ岡~網走市字大曲(国道238号),大曲~網走市(国道39号)。道央から道東への内陸横断道路の構想は,文化4年の近藤重蔵の建議に始まり,箱館奉行堀利が幕府に提出した意見書や,松浦武四郎の札幌越大新道申上書などに見られる(新北海道史2など)。開拓使時代末期から中央道路の名のもとに,札幌から道東に至る内陸横断道路が検討されていた。開削された中央道路のうち,岩見沢~忠別太(ちゆうべつぶと)(現旭川市)間を上川道路または石狩新道,忠別太~網走間を北見道路または北見新道といった。北見道路は,地理的位置などから中央道路と呼ぶ場合もある(新北海道史4・北海道道路誌)。明治21年屯田兵本部長兼第2代北海道長官永山武四郎は,国防および植民上早急の事業として道路開削を進め,経費節減と能率促進を図るため囚人労働による苛酷な建設工事が行われた。明治22年空知監獄署の囚人37名により,60日間で人跡未踏の地に57里の仮道を切り開き,明治23~24年に本格的工事と補修が行われた。北見峠以西では一部民間業者が参入したが,大部分は空知監獄署の囚徒,峠以東は釧路集治監網走囚人宿泊所(後に網走分監となる)の囚人1,000~1,300人が動員されたという。工事は小屋掛け・橋梁架設・土工の3班に分け,中心となる土工班は1組200人余で4組編成され,各組の競争で重労働が遂行された。この強制労働の結果,緋牛内の鎖塚といわれる集団埋葬地では300人,瀬戸瀬の慰霊碑によれば238人が死亡したという(小池喜孝:鎖塚)。明治25~26年に,11か所に駅逓所が官設され,この後,野付牛・湧別兵村が設置されて,民間人の入植者も急増し,道東の開発に大きな役割を果たした。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7002528