角川日本地名大辞典 北海道 北海道 23 鹿沼【しかぬま】 (近代)昭和32年~現在の行政字名。はじめ厚真(あつま)村,昭和35年からは厚真町の行政字。もとは厚真村の一部,イルシカベツ・カルマイ・入鹿別(いるしかべつ)・周文(しゆぶん)・ハマ・浜厚真・ニタチナイ・シケウシ・シゲウシ・シゲウヂなど。かつてイルシカベツ・ユルシカベツ・入鹿別と称した地域で,これはアイヌ語のイルシカペツに由来し,「怒る川」の意。砂原の長い川であるため通行者が腹を立てるから名付けたといい,あるいは始終氾濫しては流域を変えるので名づけられたともいう。また,イルシカチェプ(怒る魚,フグ)が入ったから名付けられたともいい,さらにメノコが義経を追ってその姿を見失って腹を立てたため名付けたともいう(厚真村のアイヌ語地名解/厚真村史)。地名はこの入鹿別の鹿と,地内にある大沼・長沼などの沼をとり命名(厚真町の字名由来)。江戸期は,文化年間の「東蝦夷地各場所様子大概書」にユウブツ場所の浜辺地名として「ゆるしかへつ」と見えるのをはじめ(新北海道史7),いくつかの史料にイルシカベツの地名が見えるが,住人はなかった。また,当時の入鹿別川は海に直接流出せず,厚真川に注いでいた。明治25年広島県人で月寒に居住していた大江常三郎・長門庄八・所友太郎・亀屋亀松らが将来の農耕適地と見込んで団体入地したのが,当地開拓の始まり。同26年出雲大社の分霊を奉じて集落中央の高台に入鹿別神社を創設。同34年入鹿別簡易教育所(のち鹿沼小学校)を開設,児童数20。大正4年厚真村が一級町村となって以後は,第十三部に含まれた。明治末期には入鹿別の漢字地名が確立していたと思われる。大正11年北海道鉱業鉄道(金山線)の沼ノ端~生鼈駅(現旭岡駅)間が開通,入鹿別駅が設けられたが,昭和18年国有買収により沼ノ端駅~上鵡川駅(現豊城駅)間が撤去され,入鹿別駅は廃止となった。昭和11年の入鹿別部落の戸口は81戸・543人(厚真村史)。同22年集落が電化される。同25年の世帯数72・人口490。同30年には72世帯・511人,耕作面積は田161町余で厚真村第1位,畑は33町余(同前)。昭和29年厚真村は31区の自治会に分けられて入鹿別自治会設立。同39年鹿沼地区道営開拓パイロット事業が開始され,開拓道路,排水施設,用水施設,土壌改良などが行われ,同45年完成。昭和42年鹿沼母と子の家新設。世帯数・人口は,昭和35年80・540,同45年67・357,同55年63・267。 KADOKAWA「角川日本地名大辞典」JLogosID : 7003595