シノロ場所
【しのろばしょ】

(近世)江戸期の場所名。西蝦夷地のうち。イシカリ十三場所の1つ。石狩川の流域に設定された場所で,フシコサツホロ川(現在の伏籠川)の中流がシノロ川といわれており,その地域がシノロ場所と思われる。はじめ松前藩領,文化4年幕府領,文政4年再び松前藩領,安政2年からは再び幕府領。シノロが意味する地域は松浦武四郎の記録からも3種類ある。第1は,前記のシノロ川流域でフシコサツホロ川を1里半登って二股に分かれる右側の流れがシノロ川で「秋味場」(鮭漁場)があるという(廻浦日記)。第2は,石狩川本流沿いの地名である。フシコサツホロ川口より本流をさらに上り(川口の運上屋より5里ほどという)左岸にビトイ(現在の石狩市美登位,当別町美登江,流路変更の工事があり,現在は右岸)というところがあり,ここの本名がシノロで鮭漁の番屋も設けられており,そこの標柱に,この地名のことが記されているという。この番屋をシノロ番屋と記している(再航蝦夷日誌)。第3は,本流はるか上流のウリウ川口からイヂヤン(一已)までの流域を中川(石狩川本流の中流域という意味)といい,この辺のアイヌをシノロアイヌと呼んだというものである(丁巳日誌)。武四郎は「東西蝦夷場所境取調書上」でもシノロはウリウの上流としている。また,寛政初年の「西蝦夷地分間」でツフカルイシ(知行主が高橋平蔵となっているのでシノロと同一場所と思われる)は,石狩運上屋より32里の上流にあるとしているし,安政2年の「松前蝦夷道中細見記」もシノロを70里の上流としている。この3種類のシノロは,シノロアイヌを鮭漁の都合などで移住させていることによると思われるが定かではない。武四郎の記録では,何度も立ち寄り宿泊もしているビトイについて最も具体的である。シノロ番屋があり,まわりには出稼ぎで来るアイヌの小屋・蔵・弁天社などがあり,番屋は小さな運上屋の如くであったという。しかし「夷人小屋皆出稼の由」とあってアイヌ集落のあったところではなく,和人の鮭漁の拠点の1つがつくられていたことになる(再航蝦夷日誌)。弘化年間には和人が上流域のアイヌやサル・ユウブツのアイヌを連れて来て鮭漁を行う漁場の1つが,本流沿いのビトイにあって,シノロ番屋が設けられていた。元禄13年「松前島郷帳」に「蝦夷人居所」として「はつ志や婦」「志の路」「志やつほ路」「いしかり」という順序で記され,この記し方では,伏籠川中流域を指すようにみえる。同年頃の「松前家臣支配所持名前」には,シノロがないが,のちの史料でシノロの知行主となっている高橋家(左五右衛門)が「石狩ノ沙津保呂鳥屋一ケ所」の支配所持として出ている。享保年間では,南条安右衛門(松前東西地所附),宝暦年間「石狩夏商内場所」の知行主として高橋郡兵衛や南条安兵衛の名が見られる(松前付届書留控/飛騨屋文書)。天明年間以降の知行主・請負人・運上金は,天明年間では,チイカルシの場所名で,高橋善六・阿部屋伝吉・15両(蝦夷草紙別録),寛政初年では,ツフカルイシの場所名で高橋平蔵・阿部屋専八・37両(西蝦夷地分間),文化4年高橋壮八・筑前屋清右衛門・50両(西蝦夷地日記),文化4年~文政4年までは幕府領とされるが,文政元年からは阿部屋村山伝兵衛(請負名は伝次郎)がイシカリ場所・イシカリ十三場所を一括して請け負うこととなっている。アイヌ人口について文化4年125(西蝦夷地日記),文政5年75(東西蝦夷地人別并収納高除金調子扣)という数字が知られるが,安政年間では38,松浦武四郎によれば,そのうち2人は死亡者,半分は他場所のものであったという。武四郎はイジヤンのアイヌ宅に宿泊して,この上流域の「シノロアイヌ」について人別帳と実際との照合を記しているので(丁巳日誌),武四郎が人別について論じているこの場合は,ウリウからイジヤンのあたりをシノロと見ていることになる。安政2年阿部屋の場所経営は問題が多いとされ,請負制を廃される。安政5年からは,イシカリ場所・イシカリ十三場所は,一括して箱館奉行の直轄とされたのである。この頃の鮭漁に関しては,前記ビトイのシノロ番屋のところで3か所の「和人網」が操業していて800石ほど漁獲していたとの記録がある(村山家記録)。明治2年石狩国石狩郡のうちとなる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7003703 |





