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セタナイ場所
【せたないばしょ】


(近世)江戸期の場所名。西蝦夷地のうち。最も南寄りの口場所(フトロ・セタ内)といわれる(西蝦夷日誌)地域で,利別川・馬場川(西蝦夷地日記ではセタナイとある川)の河口を中心に設定された場所。はじめ松前藩領で藩士への給地とされていたが,文化4年からは幕府領となる。文政4年松前藩へ復領となるが,藩で給地宛行をしない体制をとったため藩主直領であった。安政2年再び幕府領とされ,万延元年~明治元年は弘前藩の警衛地であった。海岸線の境界は,北側がチヤラセナイ(藻岩岬の北,弁天岬の南)を境にスツキ場所に接し,南側がエヘレケノボリ(利別川口と太櫓川口の中間にあたる地)を境にフトロ場所に接していた。西部の首長タナサカシ(タナイヌ)の瀬棚・上ノ国攻略,勢田内の波志多犬が「西夷尹」(西蝦夷地の首長)とされるというような記録がある(新羅之記録)ように,江戸期以前に当場所の地域は西蝦夷地の重要地域で,強力なアイヌ勢力も存在したところであった。元禄年間では,元禄13年「松前島郷帳」に「せたない・浜せたない・あぶら(瀬棚町虻羅)」の地名が見え,「松前家臣支配所持名前」には「世多奈井」の鳥屋(鷹などの狩場の意)3か所の地行主谷梯倉右衛門の名が見える。享保12年「松前東西地所附」には,せたない・浜せたないからちはし(島牧村千走)までがせたないの範囲として記されている。この頃スツキ場所の南寄りの地域(天明年間トコマイ場所のうちであった地)が「せたない」に属していた。元文年間知行主八木橋瀬左衛門,鯡・数の子・串貝・魚油・煎海鼠・塩鱒・生鮭を産出し,総量で1,500石,運上金は年々不同だったという(蝦夷商賈聞書)。この頃以降の知行主・場所請負人・運上金は,天明6年谷梯増蔵・大黒屋茂右衛門・100両(蝦夷草紙別録),寛政年間谷梯左門・大国屋伝九郎・砂金120両(西蝦夷地分間)。請負人および運上金などは,文政年間高田屋吉次郎・60両(東西蝦夷地運上調),天保年間山崎屋新兵衛・65両(蝦夷租金録),安政年間古畑屋伝十郎・75両(蝦夷地目撃),慶応年間古畑屋伝十郎,運上金65両,増運上金35両,仕向金74両(東西蝦夷地運上金増運上金仕向金其外上納金控書),明治2年古畑屋伝十郎・118両2分(場所請負人及運上金抄)。弘化~安政年間頃の様子は次の如くであった。運上屋(7間×20間)が馬場川口の南岸エンルンカ(岬の意)にあり,ほかに板蔵4棟,弁天社,稲荷社があり,三本杉の名で知られる岩の上には烽火台が作られていた。産物は鯡・鱈・鮑・いか・鮊・海鼠・昆布・雑魚など。またトシベツ川には鮭の網引場があり,ババ川でも鮭がとれたという。ビヤ(瀬棚町美谷)には番屋が置かれ,アブラ・シマウタ(瀬棚町島歌)には出稼漁民の小屋も多かった。トシベツ川筋には畑も開け馬鈴薯・粟・稗・大根などが作られた。ババ川上流から檜材を伐り出したこともあった。アイヌ戸口は,文政改19軒・86人,安政改18軒・73人と減少。アイヌは,介抱米の1升5合枡が6合位しか入らぬとか,畑作を禁じられ(特に麻・煙草は運上屋の商売の妨げになると厳しく禁じられた),もし収穫があれば運上屋の土地のものとして没収されたりしており,場所請負人への不満を出している。場所の境界については,フトロ側から,エヘレケノボリをトシベツ川の旧川口として境にしていたが,川口は古くから今のままなのでトシベツ川を境にすべきだと不満を出している。北側の境界については,チヤラセナイから南側までシマコマキアイヌが権利を主張して困っているなどの苦情もあった(再航蝦夷日誌・廻浦日記・西蝦夷日誌)。明治2年後志(しりべし)国瀬棚郡のうちとなる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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