太陽
【たいよう】
(近代)昭和29年~現在の行政字名。はじめ新冠(にいかつぷ)村,昭和36年からは新冠町の行政字。もとは新冠村大字比宇村の一部,比宇。かつてはブンカワと呼称された地域で,新冠御料牧場の一部。昭和22年旧満州開拓団・日鋼帰農団を中心とする4団体41戸と,翌23年の同4団体46戸の入植者により,地内の本格的開拓が始まった。同23年太陽神社,真宗大谷派大信寺建立。同23年太陽小学校設立,翌24年中学校を併設。同24年太陽開拓農協設立。同25年以来,乳牛が増加し,酪農・畑作の混同経営が行われた(太陽開拓の歩み・入植三十五周年記念誌太陽)。同30年の農家戸数は84戸で,畑3,805反・採草牧草地3,886反・乳牛40頭。同30年の集中豪雨により,河川防災の設備がない当地は大水害となり,橋流失,畑地の決壊のほか,全壊2戸・床上浸水15戸の被害を受けた(新冠町史)。同31年太陽館が落成し,映画会・演芸会などが開催された。同32~38年ハッカの作付けが行われハッカ工場が操業され,造田も盛んとなる。同32年開拓保健診療所建設。同33年太陽開拓農協は新冠開拓農協と合併,解散し,太陽部落組合となる(同42年農事組合と改称)。同33年太陽~厚賀間をバスが運行開始。同37年電気が点灯。同38年上水道施設が完成。同39年の乳牛飼育農家54戸・乳牛314頭,馬飼育65戸・馬73頭(うち軽種馬2頭)。農業構造改善事業の進展や同39年の凶作などにより離農が進行(新冠町史)。同41年太陽~里平間の道路が完成し,同時に通称1次地区町道山手線と通称2次地区町道も完成。同42年の農家269人(男124・女145),耕地面積約680ha(水田約49ha・畑約380ha・その他251ha),乳牛366頭(成牛246・仔牛120),耕馬46頭・軽種馬5頭・綿羊10頭・鶏240羽・豚11頭(太陽開拓の歩み)。同45年太陽中学校が厚賀中学校に統合され廃校となる。同47年太陽部落霊園墓地建設。同49年太陽甜菜機械利用組合が発足し,テンサイ耕作地に指定。世帯数・人口は,昭和38年92・443,同55年44・183。
| KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7004705 |