弁天町
【べんてんちょう】

(近世~近代)江戸期~現在の町名。はじめ箱館(函館)市中の1町。函館山北麓。町名は,弁財天社(弁天社)に由来する(函館市史通説1)。寛文9年シャクシャイン蜂起の際の「松前より下狄地所付」に弁才天と記されている(津軽一統志)。同社はもと弁天崎にあったが,弁天崎台場が築造された時,現地点に移され,明治初年市杵島神社,のち厳島神社となる。享和3年の家数130・人数658(北海道温故雑識)。東部に宝永3年亀田村から移転の曹洞宗高竜寺があった(蝦夷地実地検考録/函館市史史料1)。同寺は明治11年の大火の後,船見町へ移転。松浦武四郎「初航蝦夷日誌」に「弁天町……請負人,
印并小商人,漁者,小宿等有也。船多く此下に繋ぐが故に第一番の繁花也。又此処に一種の妓有。車櫂と云也」と見える。幕府は,安政3年五稜郭の築造計画と同時に弁天崎砲台の築造に着手,7年間で完成。工事費は10万7,000両余,設計監督は竹田斐三郎(函館市史通説1)。明治2年弁天崎台場に立て籠った旧幕府脱走軍兵士の放火(脱走火事)により当町151戸,市中では803戸が焼失(御用留)。幕末に弁天崎台場から地蔵町の海浜が埋め立てられ,西から西浜町・仲浜町・東浜町となった(港湾/函館市史資料集8)。慶応3年の家数197・人数904(福島屋杉浦家文書)。明治9年の戸数189・人口912(管内村町別戸口表)。同14年大町4丁目を編入(開拓使事業報告)。同32年函館区,大正11年函館市の町名となる。明治29~33年に第1期函館港改良工事で,弁天崎台場は取り壊されて函館船渠会社(現函館どつく)用地となり,台場地先も4万4,547坪が埋め立てられ,台場・小舟・仲・帆影・新浜の5町が起立。この時函館港内も12万9,505坪浚渫した(港湾/函館市史資料集8)。世帯数・人口は,大正9年337・1,883,昭和24年269・1,272。同36年台場町との間で境界変更を行い,新浜町と仲町・帆影町の各一部を編入。同40年幸町と西浜町・大黒町・鍛冶町・台場町の各一部を編入し,地内の一部を入舟町・大町へ編入。このため弁天町に海岸が復活。世帯数・人口は,昭和40年1,152・4,402,過疎化で,同55年には762・2,135となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7007756 |





