北海道
【ほっかいどう】

(近代)明治2年~現在の道名。日本列島の北端,本州に次ぐ大島で,沿岸の奥尻島・利尻島・礼文島などの小島を含む。古くは,越渡島(こしのわたりしま)・渡島(わたりしま)・度島(わたりしま)などとよばれ,阿倍比羅夫の遠征説で名高い。平安期は蝦夷ケ島・蝦夷ケ千島ともよばれ,鎌倉期には夷島(えぞがしま)とも書かれた。和人の移住は,伝説をのぞけば鎌倉期以後で,多くは渡島半島の一角に住み,当時は津軽の安東氏の勢力圏であった。江戸期は基本的に,和人地と通称され村町支配が貫徹した松前藩領と,商場知行・場所請負制度をもとに統治された蝦夷地からなる。この蝦夷地はさらに,東・西両蝦夷地のほか,樺太(からふと)(サハリン)以北をさす北蝦夷地に分けて把握された。中世以来,通常蝦夷といえばアイヌをさし,蝦夷が住む島ということで蝦夷ケ島と呼称し,ほかに蝦夷地・蝦夷・松前などとよばれることもあった。明治2年7月開拓使が設置され,8月15日蝦夷地を改め北海道と命名,11か国86郡を置いた。初代長官は鍋島直正。北海道という地名は松浦武四郎が6案を出したうちの1つ,「北加伊」を「北海」の字に改め,東海道・山陽道などにならって道を付し,北海道とされた。なお,カイは蝦夷の音読みでもある。当初開拓使直轄は16郡で,ほかは東京府・兵部省や華族・士族,増上寺・仏光寺および加賀藩・水戸藩など各藩に分領支配された。ウルップ水道を国境とすることは幕末の日露和親条約で決定しており,国後(くなしり)・択捉(えとろふ)・色丹(しこたん)島ならびに歯舞(はぼまい)群島および北蝦夷地とよばれた樺太を含む地域が当時の北海道。明治2年の戸数1万2,017・人口5万8,467。分領支配下の開拓は支配地域によってそれぞれ違いがあったが,松前藩をのぞく分領支配地域は,同4年の廃藩置県後まもなく開拓使の管轄となる。松前藩領は,明治2年館藩となり,同4年館県,弘前県,青森県の所属を経て,同5年9月開拓使の管轄となる。この時旧税制と開拓使の税制に差があったため,同6年福山・江差騒動が起きた。明治3年東京に置かれた開拓使庁を出張所と改め,同5年札幌に本庁を開設し,浦河支庁・宗谷支庁・函館支庁・根室支庁および樺太を管轄地域とする樺太支庁が置かれた。札幌本庁の直轄は石狩国と胆振国の大部分,後志(しりべし)国の一部,函館支庁は渡島国と後志国の大部分,浦河支庁は日高国・十勝国と胆振国の一部,根室支庁は釧路・根室・北見・千島の4か国,宗谷支庁は天塩国を管轄した。宗谷支庁は明治6年に留萌支庁となり,浦河支庁は同7年,留萌支庁は同8年にそれぞれ札幌本庁に合併された。黒田清隆は樺太より北海道本島開拓に専念すべきことを主張し,外人教師の招聘,留学生派遣,機械の導入などをはかり,明治4年アメリカ合衆国からケプロンを顧問として招いた。同8年樺太千島交換条約が結ばれ樺太支庁は廃された。黒田は樺太アイヌを石狩の対雁(ついしかり)に移し農業を,同17年北千島アイヌを色丹島に移して牧畜を奨励,中部以北の千島は明治中期以降鮭鱒缶詰工場や郡司成忠の探険が有名。黒田以来開拓使には鹿児島県人の官吏が多くなった。黒田は官園・牧場や道産品を原料とする30余の官営工場の設立,札幌農学校の創設,東北士族による屯田兵の琴似・山鼻への入植などに尽力したが,同14年開拓使官有物払下事件がおこり,折から自由民権運動の高揚期でもあり,払下げは取消され,翌年2月開拓使は廃止されて札幌・函館・根室の3県が設置。3県の分治に伴い,政府直轄事業を統一管理するため同16年には農商務省北海道事業管理局が設けられることとなった。当時の人口は22万余人。3県1局時代は最も開拓成績不良とみられ,金子堅太郎が同18年北海道を視察,その報告をもとに同19年1月3県1局を廃し,北海道庁を開設。岩村通俊を総理大臣直属の長官として,同21年有名な赤れんが庁舎が建設された。初期の道政では港湾・道路・植民地選定などが官営事業として行われ,移民の直接保護は資本家にゆだねられ,官営事業は,のちに民間に払い下げられた。民間への払い下げとして代表的なものは,北海道炭礦鉄道・幌内炭山などの払下げ,1億5,000万坪の華族組合への大土地払下げがあげられる。このほか,皇室御料地200万坪の設定および札幌~根室間の中央道路開削,炭山・硫黄山の採掘が行われた。しかし,明治23年の帝国議会への参政権は認められず,道会・市町村制も実施されなかった。徴兵令も施行されなかったが,屯田兵は士族から平民屯田へひろがり,全国から募集されて空知・上川を中心に配置。明治32年まで37兵村に達する。日清戦争で屯田兵は臨時第7師団を編成。明治31年までに全道に徴兵令を施行,常設第7師団は大部分が旭川に設置。この頃北垣国道長官の開拓計画案である官設鉄道案が国会で議決され,内陸部に逐次敷設された。同36年より北海道10か年計画,同43年より第1期拓殖計画,昭和2年より第2期拓殖計画が続く。明治30年代には北海道独特の区制,一級・二級町村制が施行され,戸長役場の行政管轄も並存した。同34年には道会設置,翌35年国会選挙権を得た。自治体としての自治権の獲得はおくれたが,初期道会は水産税漁家出身の議員と免税保護農民代表の議員との間で税金をめぐって対立が起こり荒れた。アイヌに対する保護政策は土地・産業・教育の各方面で施策されたが,いまだに問題点を残している。行政組織は,明治19年1月北海道庁設置と同時に札幌に本庁,函館・根室に支庁を置き,その下に区役所・郡役所が設けられて警察署も兼ねた。函館・根室の2支庁は同年12月に廃止。同30年警察権を分離し,全道を札幌・函館・亀田・松前・檜山・寿都・岩内・小樽・空知・上川・増毛・宗谷・網走・室蘭・浦河・釧路・河西・根室(国後島・色丹島を含む)・紗那(択捉島)の19支庁の管轄に分けた。さらに,同32年札幌・函館・小樽は自治体としての区制が施かれた。また,同年亀田支庁が函館支庁に改称。同36年松前および紗那支庁を廃し,それぞれ函館・根室支庁に合併。中・北千島も根室支庁管轄下となる。ついで同43年寿都・岩内・小樽3支庁を廃して後志支庁とし,ほぼ現行の14支庁制となった。この間名称も変わり,大正3年増毛支庁は留萌に移って留萌支庁,同11年室蘭支庁は胆振支庁,釧路支庁は釧路国支庁,函館支庁は渡島支庁,昭和7年浦河支庁は日高支庁,河西支庁は十勝支庁と改称した。明治30年の19支庁の設置により,国郡制は,実質的行政区画上の機能を失う。昭和20年第2次大戦末期に函館・室蘭・根室・本別などが米軍の空襲・艦砲射撃で打撃をうけ,ポツダム宣言受諾後北千島でソ連軍と若干の交戦ののち戦争は終了した。このソ連軍の参戦によって択捉・国後・色丹島および歯舞群島を含む全千島列島はソビエト連邦に占領され,同26年サンフランシスコ講和会議で日本は千島を放棄したこととなり,現在ソビエト連邦の領有権主張領として,日本の統治権はおよんでいない。戦後樺太・千島その他海外引揚者および軍人の復員者で人口は急増。同20年325万人が同22年には385万人余になった。農地改革で不在地主は一掃され,北海道は戦後の食糧基地といわれ,また石炭の傾斜生産などが行われ総合開発が企てられた。東京空襲の罹災者は戦力疎開として渡道中に終戦となり,緊急開拓としておもに道東に入植させられたが多くは失敗。昭和22年の地方自治体法で北海道はようやく他府県同様の自治体となり,同25年国は開発庁を新設,総合開発の企画業務は国が直接実施することになった。昭和28・29・30年に冷害が連続し,昭和29年の台風15号は全道の森林に大被害を与え風倒木処理景気が数年つづき,このころから夏冬通しての機械伐木,トラック搬送などできこりに白蝋病が発生した。農業では根釧原野酪農パイロットファーム,篠津では泥炭地開発が中心となったが,農業は第1次から第2次構造改善へと規模が大きくなり,農業の大規模化によって現実には離農と借金で過疎状況が現出。他方米産出量は日本一となったがこのため減反政策の影響が大きい。昭和32年釧路国支庁は,釧路支庁となる。炭鉱はエネルギー革命の影響で昭和41年以降斜陽化。新産業都市政策による道央ベルト地帯は,札幌の過密と小樽・室蘭の産業の斜陽化に加え,苫小牧港は工業港として定着してはいない。造船・鉄鋼も下火になり,水産はマッカーサーライン撤廃後,沿岸漁業から遠洋・北洋漁業へ進出。釧路は多年水揚げ日本一を誇ったが,日ソ漁業交渉・日米加漁業条約などで前途は諸問題をかかえている。戦後の労働運動で北海道の各種労働団体はリーダーとしての役割りを果たした。昭和47年冬季オリンピック札幌大会開催。同年札幌は政令指定都市になり,7区がおかれる。最近の開発事業として苫小牧工業港(主として苫東),石狩新港の築港のほか,青函海底トンネルの開通などがあげられる。札幌市は人口150万人,全道の26%を占めるが,炭鉱・農村地帯の過疎状況のなかで,おもに道東の旭川・北見・帯広・釧路などの中都市が特色ある発展を示している。また,観光産業にも力を入れ札幌の雪まつりなど各地で冬の祭典が行われている。戦後,道内の広い地域を有する町村の分離が行われたが,昭和28年町村合併促進法が出され,高度経済成長のあとは大都市への吸収合併,財政的統合が行われ,平成12年現在は34市154町24村となっている。同年の世帯数240万9,748・人口568万2,827。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7007856 |





