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南美唄町
【みなみびばいちょう】


(近代)昭和26年~現在の美唄市の地区名。もとは美唄市のうち美唄地区の一部。昭和16年三井美唄集落に含まれた。字美唄・美唄盤の沢・一の沢・美唄原野などを含む地域。一般には三井ともいった。明治8年「北海道地質測量報文」でビバイ(美貝)煤田と見える美唄炭田の一部。明治28年頃から開墾が始まり,当初は美唄川の支流の名をとり一の沢と呼称。同時期から小規模の石炭採掘が行われるが,本格化するのは大正期に入ってからで,大正4年開鉱の沼貝炭鉱では同6~7年約100人の職員・鉱員を移入し同7年の鉱員は約150人であったという(足跡)。同7年沼貝炭鉱争議が起こるが暴動事件として鎮圧される(北海道警察史)。同鉱の大正12年の鉱員数は175,同年日石光珠炭鉱が鉱員数58人で開坑(北海道鉱業誌)。日石光珠炭鉱は沼貝炭鉱を買収して事業を拡大,同13年光珠小学校開校,児童数79。巡査駐在所設置。同14年には一の沢沿いに商店が進出し,また説教所開設(足跡)。昭和3年三井鉱山が進出し三井美唄炭鉱となる。同5年三井美唄小学校開校に続き病院・互楽館などの施設拡充のほか,同8年郵便取扱所(同9年南美唄郵便局)開設。昭和7年の市街地を含めた世帯数542・人口2,783。同13年の市街地を含めた現住戸数は1,329うち三井美唄鉱の社宅数は1,054戸・在籍人員2,146人となり,同14・15年には朝鮮人従業員787が入地(同前)。第2次大戦末期には中国人のほか連合軍捕虜が連行され,昭和20年の従業員総数5,074(石炭統制会北海道支部調)。同年終戦とともに連行外国人などが帰国・離山,その合間に労働組合が結成。同21年文化連盟が結成され,音楽・演劇・舞踊・文芸などの公演・講演会が盛んになり俗に三井文化ともいわれる。昭和24年には市街地区276世帯・1,455人,三井美唄鉱地区3,503世帯・1万8,234人。地内のうち炭鉱地域にはすべて三井の社号を付す。同32年三井南小学校開設。昭和28年炭鉱合理化案にともなう113日の大争議に続き同31年から他鉱への一部転換が始まり,同33年国鉄南美唄線がディーゼル化される。同35年には3,479戸・1万8,336人,文化団体31・体育統合団体12を数える。だがエネルギー消費動向変革の波により同34年の合理化,同36年南米移住第1陣のほか350人が退職,三美鉱業など第2会社の発足に伴い住宅も集約化され,同38年三井美唄炭鉱閉山。三美鉱業も同48年閉山。一方企業誘致活動も活発化し,同38年第1号として泉製作所美唄工場が操業開始,同39年以降製造関連企業が進出。昭和43年地内は大通り1~7丁目・上1条~上4条・下1条~下18条・旭町・東町・山の手・北町・南町・西町・中央通り1~6丁目・栄町南・栄町北・仲町・新富町・桜井町に分かれる。旧三井田園町地域は東2条南~東7条南となる。同45年には1,961世帯・6,282人。同48年国鉄南美唄線廃止。同49年三井美唄中学校焼失。同51年南美唄中学校として開校,同54年三井美唄小学校と三井南小学校を統合して南美唄小学校開校。同53年陸上自衛隊第1特科団第126特科大隊駐屯,同57年ゴミ処理センター開設,同58年南美唄コミュニティセンター開設。同年北海道縦貫自動車道工事着工。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7008645