ユウブツ場所
【ゆうぶつばしょ】

(近世)江戸期の場所名。東蝦夷地のうち。寛政11年東蝦夷地が幕府領にされた時に,いわゆるシコツ十六場所をまとめて一場所として勇払川口を中心に設定された場所。同時に請負制が廃止され,箱館奉行が直轄,役人が駐在して場所経営・警衛を行った。文政4年松前藩領,安政2年再び幕府領(仙台藩警衛地)となる。海岸沿いの地域の境界は,西はベツベツ川(現在の別々川)を境にシラオヒ場所に接し,東はフイハフ(現在の門別町富川のフェハップ海岸)の小流を境にサル場所に接している。内陸部では,千歳川上流のイサリまで,また鵡川上流域までが当場所の範囲である。シコツ十六場所のうちにトコマイ(苫小牧川口の辺り)・タルマイ(樽前川川口の辺り)を,あるいはそのどちらかを,いれていない記録(東西蝦夷地場所附など)もあるが,ユウブツ場所は,両地域を含んだ領域となっている。千歳川上流域での境界を,イサリまでユウフツ場所(幕府領),シユマヌフから下流はイシカリ場所(松前藩領)と明確にし,幕府領・藩領の区分がはっきりしたため,イシカリ側のアイヌが持っていたイサリの漁場を幕府がとりあげる事態となり,永く訴訟が続いた(苫小牧市史)。運上屋もまとめられ,会所という名称で勇払川口に建てられ,出張番屋がロウサン・ママツ(以上千歳川上流域)・上ム川・下ム川(鵡川流域)に設けられた。文化元年海岸の崩落で,会所は川口の東岸から西岸に移され,同年出張番屋も整理され,シコツ(現在の千歳市市街の位置)に売場・買場両会所が置かれた。当時,幕府が蝦夷地で流通させていた鉄銭で交易していたという。なおシコツは,死骨に通ずるとして,同2年同地に多く見られた鶴にちなんで千歳と改められた。同5年の会所など,施設の様子は,ユウフツに会所1棟(5間×18間),下宿所3か所,板倉4か所,荷物板倉3か所,会所付蝦夷船20艘,同川船40艘,そのほかの船5艘,シコツに千年川会所(売場4間×16間,買場4間×24間,各1棟),板倉4か所,イサリフトに番屋2か所(東蝦夷地各場所様子大概書)。当場所は,古くから千歳川や勇払川の流路を利用した日本海側から太平洋側の間をつなぐ交通の要地で,川船が多く配置されていた。この頃の産物としては,鮫・椎茸・魚油・干鮭・秋味(鮭塩引のこと)がある。アイヌは,海漁がないため川漁で生活し,自用の食糧および交易の産物として重要な鮭を千歳川上流域で獲っていたという(同前)。多くは干鮭として交易にまわされ,当場所の塩引きについては,多くのアイヌが石狩川下流域の出稼鮭漁に送り出されており,漁期末になってから自分の漁場へ戻って漁するため,魚体に斑が出ており,肉は白く,味がよくない,価格も安いもの,とされていた(初航蝦夷日誌)。この間,寛政12年から八王子千人同心による,警衛とあわせた開拓が行われ(畑作場は鵡川川口周辺が中心)注目されたが,十分な成果はなく文化元年までに廃止となっている。文化9年からは,再び請負制がとられ,入札によって阿部屋仁兵衛(運上金611両余)の請負いとなった。文政4年からは山田屋文右衛門が請負い,慶応年間まで継続する。運上金は,文政年間250両(東西蝦夷地人別并収納高除金調子扣),天保年間250両(蝦夷租金),安政年間600両(蝦夷地目撃)。慶応年間運上金250両・仕向金323両・増運上金1,000両(東西蝦夷地運上金・増運上金仕向金其外上納金控書)。文政4年頃から産物の様子も変わってくる。天保年間の頃から主要産物は,鰯乄粕となっていて,天保10年では鮭2,000石・鰯2万石,安政元年では鮭1,500石・鰯8,000石の産出量が知られ(苫小牧市史),「鰯八分,鮭二分,鹿皮多し」と安政年間の様子を伝える(東蝦夷日誌)。鰯漁場はタルマイ浜で,多くの漁小屋・酒屋・茶屋が並び,にぎやかで「蝦夷人の里」とは思われなかったといい(同前),当場所では鹿がよく獲れ,鹿皮や角が江戸・敦賀方面へ移出された。勤番の武士たちも1年に70~80頭も獲るほどで,価格も安くなっていたという(初航蝦夷日誌)。請負人山田屋が,当場所や隣のサル場所(山田屋の請負場所)のアイヌを送り出して行う石狩川下流域の出稼鮭漁は,かなりの規模だったようで,安政年間ではヒトエ(現在の石狩市美登江・当別町美登位の辺り)など11か所に「ユウフツ出稼漁小屋」があった(イシカリ御場所里数小名書上)。請負人の使役のもとでアイヌ人口は減少傾向を示すが,文化5年1,238人(東蝦夷地各場所様子大概書),文政改1,312人,安政改1,179人(東蝦夷日誌)とあり,西蝦夷地ほどの激減の様子はない。当場所の平地の部分は,地味肥沃で雑穀・野菜などができるので,安政年間には藍の試作が行われ,漁の合間に栽培する者もいた(同前)。また,アツマ川筋では各戸に雑穀15~16俵ずつも収穫しているアイヌの村があるとか,ムカワの川筋ではアイヌが弓の弦用に麻を多量に栽培しているという農耕の様子も伝えられる(戊午日誌)。明治2年胆振(いぶり)国勇払郡・千歳郡のうちとなる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7009309 |





