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相内
【あいうち】


旧国名:陸奥

江戸期は主に相打と書く。津軽半島の西北部,十三湖の北岸にあり,相内川が山王川(山王坊川)・桂川・太田川を合流して形成した三角州の西側丘陵上に集落が立地する。地名の由来は,「人が多い沢」という意味のアイヌ語説と,「東日流外三郡誌」の「唐川柵・福島柵の相内なるの意にて相打内と称すが真なり」とする説もあるが確かでない。岩井遺跡(字岩井)は,大沼の東側半分から東南の二ツ沼に達する広範囲にわたり,19個の竪穴が確認され,室町期のものと推定される。青磁・天聖元宝(宋銭)・石鏃・刀子残片など出土。笹畑貝塚(字岩井)とオセドウ貝塚(字露草)は縄文前・中期であるが,後者からは大正12年に1体の人骨が発見された。露草遺跡(字露草)は須恵器を出土。蛇石遺跡(字実取)は縄文時代の竪穴群で縄文土器・土師器を出土。福島城跡遺跡(字実取)は十三湖岸の鰊崎にあり,32個の竪穴群で平安後期頃と推定され,土師器・土錘・鉄製刀子・鞴口など出土。禅林寺(俗称四軒屋にあったというが,所在地は未確認)については「陸奥古碑集」によれば,「禅林寺址三基 相内地方史蹟に……一松樹を見る樹下に二基の五輪塔の断片あり……此辺にて完全なる墓石を土中より掘出したる人あり云々とあるなり」とみえ,蓮華庵(字相内)奥の墓地の一隅にある高さ約1mの粗末な五輪塔がその1つという。そのほかに禅林寺跡から発見されたという延文年間の板碑が5基ある。阿吽寺(日吉神社の近くにあったというが,所在地は未確認)については,「陸奥古碑集」に蓮華庵裏の墓地に阿吽寺跡より出土した五輪塔や板碑があると記されているが,所在は不明。この両寺は,「十三往来」によれば,十三(とさ)千坊の寺として繁栄したと推定される。創立は諸説があり不明。安東氏が南部氏によって永享4年(嘉吉3年説もある)に松前(現北海道)へ追放されてからは,十三湊一帯は放棄されるままになったと思われる。「享和3年寺社領分限帳」に両寺の名称はみえず,江戸期にはすでに廃寺になっていたことがその他の記録によっても知られる。日吉神社(字岩井)境内にある山王坊跡は昭和57年に第1次発掘調査が行われ,安東氏に関係する純粋な中世の宗教遺跡であることが確認された。福島城跡は,外城と内城からなる総面積約62万5,000m(^2)の規模をもつ東北地方最大の城郭で,築城は鎌倉末期から南北朝鮮にかけての頃と推定される。天文年間の津軽郡中名字に「鮎内川〈アイウチカハ〉」と見え,当地に比定される(津軽一統志/県史1)。坊様踊は古くから伝わる盆踊で「ナオハイ」という囃子言葉から,歌はナオハイ節という。中世に山王坊が繁栄したした頃,坊様や村人が踊ったのに始まるといい,安東氏時代の宗教的歌謡から変化したものであろうという。
相打村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
相内村(近代)】 明治22年~昭和30年の北津軽郡の自治体名。
相内(近代)】 明治22年~現在の大字名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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