100辞書・辞典一括検索

JLogos

36

易国間
【いこくま】


旧国名:陸奥

下北半島先端部の西北端,易国間川および目滝川河口に位置し,津軽海峡に面する。康正3年下北図に「湯沢野」とみえるが(東北太平記/みちのく双書3),委細不明。地名の由来については,往子蠣崎蔵人が最宝院の別当大締を蒙古・韃靼などに遣わして軍馬や兵糧を購入したことがあり,これらの輸送船が湯沢野浦に入津していたことから「異国ノ澗」とも呼ばれたが,蠣崎の乱後「異国間」としたという(風間浦村誌)。また,アイヌ語で「熊の通る谷間の横山」の意の「イコツクマ」に由来し,室町期に国司北畠顕信が国代南部政長を従え,この浦で韃靼の使者を引見して以来交易船が往来したことから「異国間」の文字をあてたともされる(下北半島史)。なおまた,菅江真澄「牧の冬枯」には「異国間といふは,いにしへこまうどのはなたれ来りしよりいふとも人のいへり」とある。大石神社の貞享4年の棟札には「夷国間」と書かれており,「国誌」にも「昔は湯の沢と云ひ,後に夷国間と書しか夷の字を忌て今の字に改」とある。「湯沢野」であるか「湯の沢」であるかについての確固とした判断材料はない。「異」と「夷」については,同書に「昔アシタカと云蝦夷種住居し,村を夷語にイコンクマと云しよし」とあり,江戸中期頃まで海峡の蝦夷を統率したとされる蝦夷酋長の足高との関連づけがなされている。「牧の朝露」にも「いこんくま」とある。「易国間」に改められたのは,文化2年南部利敬が巡国の際穏当ならぬとしたためで,同6年再度布達されたという。ただし,「易国間」の文字は領内限りとし,幕府への提出文書類は従来どおり「異国間」の文字を当てたとされる(風間浦村誌)。アイヌ語に由来する説には「イコツクマ」以外にもあり,「下北半島地名考」(旅と伝説11)では,「貫柱の小山ある場所」の「イコンクマ」,または「貫柱の山流」の意の「エキンクマ」としている。字小易国間は,天保年間の史料に古易国間と書かれたが委細不明(中井家文書)。「牧の冬枯」では菅ノ尻を「杉ノ尻」,桑畑を「桑端」と記載している。集落を取り囲む海岸段丘上から擦文式土器が出土しており,北海道文化の南進と関係が深い。また桑畑からは縄文前期の土器,後期の貝塚が発見されている。
易国間村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
易国間(近代)】 明治22年~現在の風間浦村の大字名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7009911