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岩木山神社
【いわきさんじんじゃ】


中津軽郡岩木町百沢にある神社。旧国幣小社。祭神は顕国魂命・多都比姫命・大山祇命・宇賀能売命・坂上刈田麻呂命。津軽の名山として知られる岩木山の東南麓にあり,同山頂には奥宮本宮がある。創祀には諸説があって一定しないが,当社別当百沢寺9世朝誓が元禄7年に記した「百沢寺光明院縁起」(百沢寺文書/岩木山信仰史),および「津軽一統志」には,延暦15年に草創されたとする。文化8年成立の「岩木山縁起」では,昔大己貴命がこの国に降臨し,土地の女神で大己貴命に珠を献じた竜女(国安珠姫)と夫婦になって国を治め,のちに阿曽辺(あそべ)の森(岩木山の古称)の頂上に磐椅宮を建てたのがはじまりとする(弘前図書館蔵)。中世の説話文学として名高い「山椒太夫」に,陸奥国岩城判官正氏とその子安寿姫・厨子王丸が登場する。この安寿姫を岩木山の神とする伝説も多く,「岩木山縁起」の「国安珠姫」の名も,中世から近世にかけて全国に流布した「山椒太夫」説話から起因したと思われる。「岩木山はおなご山」という周辺の口承も,山神を女性とする全国的な信仰と共通している。すでに寛永年間に,2代藩主津軽信枚が当社山門に安寿姫・厨子王丸の像を納入している(弘前市長勝寺に現存)。祭神の多都比姫命(竜女)が本来の当社祭神で,中世以降の神仏習合によって,本地を十一面観音とされていた。江戸期までは山頂の奥宮本宮(御室と呼ばれた)の本尊は十一面観音(後に聖観音)であり,また山門の本尊も十一面観音で,当山は観音信仰の一大拠点であったことが知られる。しかし一方,江戸期の初頭以降,当社は岩木山三所大権現と呼ばれるようにもなる。岩木山は,その北側平野部からながめると尖った円錐形の山頂だが,東の弘前市側からは3峰が見える。中央が岩木山頂上で,北東が巌鬼(がんき)山,南西は鳥海山である。この3峰が,中央国常立命(阿弥陀如来)・北東国安珠姫(本地十一面観音)・南西大己貴命(薬師如来)とする三所権現の信仰を生み出したと言われる。岩木山を信仰対象とする神社は,当社以外に弘前市十腰内の巌鬼山神社と同市鬼沢は鬼神社がある。両社はともに山の北側に位置し,その古くからの祭神は赤倉峰(巌鬼山)の鬼神とされている。岩木山神社の旧地は,もともと十腰内にあった巌鬼山西方寺観音院の地と伝えられ,坂上田村麻呂が延暦15年に十腰内から百の沢を隔てた南東麓の現在地に移したとされる(百沢寺光明院縁起)。このことからも,女神や鬼神を祀る岩木山の信仰の原型が北麓地域で発展し,やがて南東麓に本拠を移して三所権現の信仰が芽生えたことがわかる。十腰内から百沢に移座した時期は未詳だが,社伝によれば延暦15年あるいは寛治5年としている。現在当社近くに岩木山神社元宮跡があり,その地から青磁・天目茶碗などの陶磁器と土師器・須恵器の他鉄製刀子などが出土している。これらの遺物は,当社およびそれと一体となっていた百沢寺の創立を考える上で,重要な資料となることが予想される。また,当社の三山信仰には修験道,特に天台系熊野修験本山派の影響が強く感じられる。中世後半頃,津軽地方に急激に浸透した本山派修験が,天台宗寺院の百沢寺を中心とする岩木山信仰を発展させたと考えることもできよう。中世以前の当社に関する史料はほとんどなく,その沿革には未詳な点が多い。応仁3年に源行定と阿部盛季が御宝殿を造立したと伝える。社蔵する永正14年銘釣灯籠には「奥州津鼻大浦 西勝院弘信法師立願為也一所願成就 岩木山宝殿 施主三上盛介」とある。戦国期になって岩木山東麓の大浦に本拠地を構えた大浦氏(のちの津軽氏)は,大浦為則の時永禄3年に社殿を建立したといわれる。「津軽一統志」や寛永15年に3代藩主津軽信義が捧げた願文には,天正17年正月8日岩木山の噴火によって延暦年間の建立と伝える大堂以下,社殿・寺堂ことごとく焼失したとある。その後慶長6年,藩祖為信は下居宮を再建し,同8年には大同を再興した(棟札)。このころ為信は領内の天台宗寺院を廃し,真言宗に改宗させる政策を推しすすめるが,百沢寺もその例外でなく,真言宗になって幕末に至っている。2代藩主信枚は,寛永2年に改めて百沢寺を当社別当寺に定めると同時に,百沢寺に寺領400石,子院10坊に各16石,神官安倍氏に10石,守山社神官山田氏に3石を与えた(百沢寺光明院縁起)。現存する楼門は寛永5年に信枚が建立したもの(国重文)。また同6年(永禄日記では同4年)には虚空蔵堂(現在の求聞寺)を百沢寺南方に創建した(岩木山虚空蔵堂願文/岩木山信仰史,永禄日記)。3代信義は父信枚が造立した百沢寺本尊阿弥陀・薬師・観音の3尊を納める御宮殿(大堂の内陣厨子堂)を造立,寄進した(三尊仏および厨子堂は長勝寺にあり,ともに県重文)。また信義は現在当社拝殿となっている百沢寺大堂(国重文)を寛永17年に再建した。第4代信政は,定享元年から元禄7年にかけて下居宮(現在の本殿,国重文)を再建し,ほかに奥門・瑞垣なども建造した(国重文)。このように,代々の弘前藩主は当社を篤く信仰し,社殿の整備などに度々尽力している。江戸期における景観は,元禄14年頃に百沢寺第10代別当朝祐の書いた記録に詳しい。山頂には岩木山御室(現在の奥宮)があり,その本尊は1尺2寸の金銅製十一面観音であった。本殿下居宮には神像が3体,大堂には阿弥陀・観音・薬師と四天王像が納められていた。山門には本尊十一面観音のほか五百羅漢等も安置されている。このほか境内には観音堂・神楽堂・弁才天宮・護摩堂・薬師堂・熊野宮があった。百沢寺の子院10坊は,宝積坊・西福坊・山本坊・福寿坊・南泉坊・東林坊・円林坊・法光坊・万福坊・徳蔵坊で,百沢寺の門前にあった。これらのほか,守山社とよばれる末社がある。守山は小型の岩木山といわれ,平常禁足地となっている岩木山の代わりにお詣りする山であった。朝祐の記録では「守山大臣社」と記されており,何か特別の意味があったとみられる。天保10年に護摩堂が焼失したが,弘化4年に再興された。明治期の神仏分離で,岩木山内の仏教色はほとんど取り払われ,百沢寺は廃された。明治6年岩木山神社を正式名称とし,国幣小社に列した。毎年旧暦正月7日に七日堂祭が行われる。柳の行事で豊凶,三拍子の行事では天候を占い,多数の参拝者でにぎわう。旧暦8月1日には「山かけ」あるいは「お山参詣」と呼ばれる山頂登拝行事がある。この行事の歴史は古く,「和漢三才図会」にも「八朔より重陽に至るまでの中七日潔斎して登るべし。他日は許さず。而も女人結界の山なり」とあり,また「俗に云ふ,津志王丸姉の安寿を祭る一社なる故,今に於て丹後の人登山することを許さず」ともある。山椒太夫が丹後の住人であったとされていたので,このように伝えられたのであろう。「東遊雑記」の天明8年7月15日条にも,幕府の巡見使に対して弘前藩より,丹後国生まれの者は津軽領内に入ることを遠慮して欲しい旨要請があったと見える。岩木山が曇ることを津軽では今も「丹後日和」を呼んでいる。明治期の神仏分離を契機として,それまでの女人禁制が解かれたため,お山参詣は以前にも増してにぎわうようになった。旧暦7月29日の夜,精進潔斎をした人たちが,村単位で大幣束や幟をたて,鏡餅や野菜・果物などの供物を担いで山に登る。笛・太鼓・鉦で囃し,「サイギ サイギ」の唱文を唱えながら,上り12kmの山道をかけ上る。山頂の奥宮に到着すると「ハジ イマキタジャー」と叫びながら社殿にかけ寄り,供物を捧げる。この頃には東の空に朝日が昇り,これを拝んだのち下山する。旧暦8月1日の登山をツイタチヤマともいう。また初めてお山参詣に参加することをハツヤマと称し,ハツヤマをかけなければ一人前とみなされないともいう。文化財には,拝殿(旧百沢寺大堂)・楼門・本殿などが国重文,日本刀・舞楽面(3面)・釣灯籠(永正14年銘)が県重文に指定されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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