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羽州街道
【うしゅうかいどう】


奥州街道の桑折(こおり)福島県と油川(青森市)を結ぶ街道。桑折から小坂峠を越え,山中七ケ宿(宮城県)-上ノ山-山形-新庄(以上山形県)-横手-久保田-能代-大館(以上秋田県)を経て,矢立峠から津軽に入り,碇ケ関(いかりがせき)-弘前-藤崎-浪岡-新城(青森市)から奥州街道筋の油川に至る。青森県の該当部分は矢立峠~油川間である。現在の国道7号の秋田県以北の路線に相当する。津軽では,小坂峠を通過することから小坂通り江戸道中・小坂道中などと称した(県歴史の道調査報告書)。江戸初期には,能代から日本海沿岸を北上,八森(秋田県)を経て津軽領に入り,大間越(岩崎村)-深浦-鰺ケ沢(あじがさわ)を経て弘前へ入る道筋が本道とされ,津軽氏の参勤交代や幕府巡見使の通路に利用された。矢立峠を越える道筋は,天正年間に大浦為信の比内(ひない)(秋田県)進出に際し開かれたといわれる。「津軽一統志」には「此時上浦〈平賀郡大鰐より碇ケ関迄を云ふ〉より,比内迄道を開せらる,矢立の杉と云ふ大切所を切通し」とあり,「永禄日記」には,「天正十七己丑年 九月碇ケ関の道切開申べき由相究り候」「天正十八庚寅年(中略)碇ケ関道切開。人夫在々割付過分ニ而難義致候,然共道筋開候ハゞ往来可宜由人々申候」とみえる。寛文5年以降には参勤交代に碇ケ関口が使用されるようになり,同7年以降は幕府巡見使もこの道筋を通っている。「慶安2年道筋帳」には大道筋として,大間越から弘前に入り,浪岡-油川-青森を経て南部領境至る道筋と,弘前から碇ケ関を経て秋田領境に至る道筋があげられている。これによれば,弘前から油川に至る道筋は,距離が8里10町で,大釈迦(浪岡町)と新城間の坂道において道幅は3間,「山中左谷難所,但霜月より明ル二月迄牛馬不自由,大雪之時ハ不通」であった。橋は「平賀川と黒石川(浅瀬石川)之落合藤崎渡り広さ弐拾三間深さ四尺,但船渡り」とあるほかはすべて架橋されていた。「永禄日記」には,宝永7年以降,たびたび藤崎橋の流失記事がみえ,江戸中期には藤崎渡しにも架橋されていたことがわかる。弘前から碇ケ関を経て秋田領境に至る道筋は距離が6里で,剣ケ鼻坂(大鰐町)において道幅2間,秋田領境においては道幅1間で「壱騎打荷付馬通,左右木山谷」であった。川には橋は架設されていなかった。元禄7年の御国中道程之図では,碇ケ関方面のすべてに橋が架けられており,参勤交代の道筋となった碇ケ関街道には,寛文年間以降急速に架橋工事が進められたと考えられる(県歴史の道調査報告書)。弘前~碇ケ関間は当初,堀越(弘前市)を経由していたが,貞享2年には小栗山経由に改められた(津軽歴代記類)。承応2年の「津軽領道程帳」では,矢立峠から弘前に至る間は,街道で道幅は,1間半~2間,碇ケ関~石川(弘前市)は2間で,3間の所もあり,石川~堀越間は2~2間半で3間の所もある。そのほかは4間であった。街道筋には並木が植えられ,一里塚も築かれていたが,現在は失われている。天明8年の幕府巡見使に随行した古川古松軒は「東遊雑記」に「石川より弘前の城下まで,三里の街道ひろびろとして,左右の並木空を覆い,上方筋にもなきよき道なり。西のかたには世にしる津軽富士と称せる岩城(木)山西前にありて,はるかに見る所,街道数里の並松弘前につづき,岩城山の麓を取り廻せしごとく,山の頂きには白雲を帯せし如く,眺望いわん方なし」と述べている。碇ケ関には口留番所が設けられ,町奉行が置かれていた。また,藩主の別邸である御仮屋があり,参勤交代の際などの宿泊に利用された。享保4年1月から11月までの11か月間に碇ケ関の通行者数は5,042人であった(国日記)。しかし,弘前藩内においては,街道筋に宿場町の発達はみられなかった。明治3年には,新城~青森間に新道が開かれた。これは現在の国道7号に当たる。明治10年には矢立峠,明治10年代の中頃には大釈迦峠の改良工事が行われた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7010064